明智光秀
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^ 『明智物語』では天文18年(1549年)に光秀は元服前であったことが書かれている[5]
^ 徳永真一郎『明智光秀』(PHP研究所、1988年)363頁に言及あり。
^ 漢字で書けば金柑頭(「ん」は通例読まない)で、金柑のように禿げた頭をさす一般的な表現で、特に光秀を指すわけではない。また、金華頭ともあてられることもあり、いわゆる藤原病でもある。
^ 土岐定政の父。
^ 実妹とは考えにくく、妻の妹であろう[21]
^ 前室・側室があったとの説もあり。
^ 土岐氏は建武の新政から美濃国で200年余り守護を務め、数十家の支族を輩出した[24]
^ 始め頼久と名乗り、頼宣、頼連と改名し、出家して玄宣を名乗る。明応9年(1500年)以降に還俗して光高を名乗ったと見られる。玄宣(光高)の子は光重と奉公衆の政宣、政宣に子はなく、光重の子は光兼。玄宣の父は頼高、祖父は頼秀。
^ 他に、明知城(現・岐阜県恵那市明智町[38] や、山県市美山出身などの伝承もある。前者は遠山氏の築城した城でもあり、後者は20世紀を下る記録は無い[39]
^ a b 『遊行三十一祖 京畿御修行記』(遊行同念の天正8年(1580年)7-8月の旅行記、随行者が記述)天正8年正月24日(1580年2月9日[注釈 2])条に、阪本城の光秀へ南都修行のために筒井順慶への紹介状を称念寺僧を使者にして依頼し、知人として「惟任方はもと明智十兵衛尉といって、濃州土岐一家の牢人であったが、越前国朝倉義景を頼り、長崎称念寺門前に十年居住していた。そのため称念寺使者僧とは旧情が深くて坂本にしばらく留め置かれた」と記述[46]
^ 同時代の朝廷の武士との連絡役の役職者である立入宗継の『立入左京亮入道隆左記』にも、光秀を「美濃の住人とき(土岐)の随分衆也」と記述[47]
^ もともと斎藤利良の書であったものを、一族の花村利房が永禄12年(1569年)、花村利昌が文禄3年(1594年)、不明の人物が元和3年(1617年)に様々な資料から書き加え、最終的に伊東實臣が元文3年(1738年)に作製したものである
^ 「朝倉氏滅亡時の混乱の中で光秀と縁の深い、越前にいた竹という者の面倒を見て命を救った様子の感謝と服部七兵衛を百石加増した」内容。
^ 沼田清長、奉公衆を務めた沼田家の庶流の人物と考えられ、義昭の側近として仕えていた[55]
^ 前半に永禄6年(1563年)正月?翌年2月頃の奉公衆、後半に永禄9年(1566年)8月?翌年10月頃の奉公衆を列挙したもので、後半は足利義昭が編纂を命じたものという説がある[74]。後半部分は永禄10年2月から永禄11年5月までの間に追加して作成されたことが明らかにされた。さらに義昭はたどり着いた一乗谷で永禄11年4月に元服しており、その前後に作成された可能性が挙げられている[55]
^ 「一僕の身」は中世から江戸時代にかけての慣用句で、小身の「一人奉公」の侍を貶めた言い方である[83]
^ 『武家雲箋』所収一色藤長書状による[93]
^ 『年代記渉節』に公方衆として記載している[102]
^ 『明智家法』については長く福知山の御霊神社にしか伝えられておらず偽文書説が有力であったが、平成8年(1996年)に同じものが尊経閣文庫から発見されたことから真書説が有力となり、確定したと断定する記述もある[138]。しかし、その一方で『明智家法』に書かれた軍の編成が江戸時代のものに酷似していることから、山本博文堀新のように依然として偽文書説を採る研究者もおり、その根拠として「戦国期の主要な兵器である弓に関する編成の規定がない」「当時の軍法の基本的な規定である『(戦闘時の)抜け駆け禁止』や家臣の従者の統制に関する規定がない」「制定日が本能寺の変のちょうど1年前という不自然さ」などを挙げている。堀は光秀の名誉回復の動きがあり『明智軍記』が編纂された17世紀後半の制作の可能性を指摘している[139][140]
^ 茶室の床の間は貴人の座の象徴である[141]
^ 「御ツマキ」が、実妹か義妹かは、論が分かれる。また苗字ならなぜ「御」が付くのか、「妹御」の誤りか[143]、名前と間違えたのか、などの疑問も言われる [144]
^ 『兼見卿記』天正6年(1578年)6月14日、信長祇園会見物の日に「妻木所」へ「台の物、肴色々・2つの瓶を使者に持ち遣わした」。天正7年4月18日条に、「妻木惟向州(光秀)妹が参詣するときの生理事のことを、書状で尋ねてきたので回答した」。また、同年9月25日条には「惟任姉妻木が在京の時に双瓶と食物を籠に入れて持参したが他の用で不在で「女房館」へ渡し帰る」とある[145]。さらに『言経卿記』天正7年5月2日条で「父言継の死去に伴う信長への挨拶の際に近所の女房衆のツマキ・小比丘尼・御ヤヽへ帯2本を進物する」。
^ 妹がもしも妻木なら、光秀の本姓も土岐明智でなく土岐妻木であった可能性がある[143]。妻木家から明智家に養子入りした仮説もありうる[144]
^ 『惟任謀反(退治)記』という史料によると、斎藤利三ら重臣が本能寺の宿所を取り巻いた際、光秀は途中で控えたと記されていたり、文献『乙夜之書物』によると、「斎藤利三と、光秀重臣の明智秀満が率いた先発隊2千余騎が本能寺を襲い、光秀は寺から約8キロ南の鳥羽に控えていた」と記されていたりと、攻撃に参加せず後方に控えていた説もあるが、実際に光秀が重臣らとともに本能寺の攻撃に加わっていたのか、あるいは後方に控えていたのかは、明確にまだわかっていない。
^ 利治は病で加治田城において静養していると考えていたようである。
^ 「班久勇武記するに遑あらず且諸記に明らけし、終に忠志を全ふして天正十壬午六月二日未刻、京師二条城中において潔く討死して、君恩を泉下に報じ、武名を日域に輝かせり」
^ 実弟・山岡景猶が光秀の寄騎近江衆の一員であった。
^ 場所については、小栗栖あるいは本経寺付近の竹薮、または醍醐か山科と当時の各日記でも情報が分かれている。
^ 8日浅野長政宛て秀吉書状でも「明智め山科の藪の中へ逃れ入り、百姓に首をひろわれ申し候」としている(『浅野家文書』)[158]
^ 亀岡市は亀山城の城下町。伊勢亀山との混同を避けるため、明治2年(1869年)に改称した。
^ 「明智が信長を殺した頃、津の国の殿たちや主だった武将らは毛利との戦いに出陣していたから、同国の諸城の占領をすぐに命じなかったのは、明智が非常に盲目であったからで、彼の滅亡の発端であった。それらの諸城は、信長の命令によってほとんど壊された状態にあり、しかも兵士がいなかったので、500名あまりの兵をもって、人質を奪い、彼らを入城せしめることは、彼にとって容易な業だったはずである」「明智は勘違いして、(高山)右近殿は中国から帰って来れば自分の味方になるに違いないと考えていたからである。
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