明智光秀
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子女

史料のしっかりした定説は存在せず、確たる証拠のある男系子孫は存在しない。一方で、「光秀の子孫」と称する家は複数系統ある。光秀の書状などにより確認できる男子は「十五郎」であり、当時の史料の上で十五郎の諱は明らかではない。

『明智軍記』では3男4女がいたとする。

長女:
明智光春の妻[注釈 50]

次女:明智光忠の妻

三女:細川忠興の妻(細川ガラシャ

四女:津田信澄(織田信澄)の妻(花渓眞英大姉[216]

長男:光慶(十兵衛)[注釈 51]

次男:光泰(十次郎)

三男:乙寿丸[注釈 52]


『鈴木叢書』所収の「明智系図」では側室の子も含めて6男7女があったとする。

長女:菅沼定盈の妻 - 養女(実父・三宅長閑)

次女:桜井家次の妻 - 養女(実父・三宅長閑)

三女:織田信澄(津田信澄)の妻

四女:細川忠興の妻(細川ガラシャ)

五女:筒井定次の妻[注釈 53]

六女:川勝丹波守の妻

長男:玄琳[注釈 54] - 妙心寺に入る。

次男:安古丸 - 山崎の戦いで戦死。

三男:不立 - 天龍寺に入る。

七女:井戸三十郎の妻

四男:十内[注釈 55] - 坂本城落城の際に死亡。

五男:自然[注釈 56] - 坂本城落城の際に死亡。

六男:内治麻呂 - 喜多村保之(喜多村弥平兵衛)。家伝に拠れば光秀の末子で、伊賀国柘植氏分流の北村(喜多村)保光の娘の子と伝わる。のち江戸幕府の江戸町年寄。

不明:定頼


大阪府岸和田市にある本徳寺の開基とする南国梵桂は、一説に光秀の子とされるが定かではない。また光慶と同一人物とする説もある。

宣教師ルイス・フロイスは光秀の長子のことを「非常に美しく優雅で、ヨーロッパ王族を思わせるようであった」と伝えている。

自然は津田宗久の茶会記で実在が確認される。

「光慶」の諱は『連歌総目録』『集連』などの愛宕百韻の写本などにその名が残るが、いずれも後世の書である。

縁戚
叔父叔母


『明智軍記』では
光安、光久、光廉の3人の叔父と、その家族の名がある。

『明智氏一族宮城家相伝系図書』によると、上記に加えて叔父・光広、叔母に岸信周の室、岸信周の後室、斎藤道三の室・小見の方[注釈 57]など5女があったという。

従兄弟


『明智軍記』では、光安の子に光春(秀満)、光久の子に光忠、光廉の子に光近があるとする。

『明智氏一族宮城家相伝系図書』によると、上記に加えて光安の子に光景、柴田勝定の室、ほか二女があったという。

子孫

山崎の戦い明智家は滅んだとされるため、確証のある光秀の子孫は他家へ嫁いだ光秀の娘たちの女系子孫たちである。細川忠興へ嫁いだ珠(細川ガラシャ)の子孫は細川家の他、令和皇室にもつながる。
細川家

光秀の娘、珠(細川ガラシャ)と細川忠興の間に忠隆忠利、多羅(稲葉一通室)などが生まれる。

長岡(細川)内膳家 - 忠興の嫡男である忠隆の家系。忠隆は廃嫡され、子孫は細川家臣内膳家となるがガラシャの血を継ぐ。子孫に衆議院議員:細川隆元、政治記者:細川隆一郎(隆元の甥)、政治記者:細川隆三(隆一郎の子)、政治記者:細川珠生(隆一郎の子)、先祖研究者:片平凌悟(珠生の子)。

肥後細川家(豊前小倉藩、肥後熊本藩主家) - 忠興の三男である忠利の家系。第8代治年に嗣子なく、支藩の宇土藩主家(光秀、ガラシャの血をひいていない立孝〈忠興の四男〉の家系)より養子を迎えたために熊本藩主家における光秀の血は途切れている。

長岡(細川)刑部家 - 光秀、ガラシャの血をひいていない興孝〈忠興の五男〉の家系であるが、第6代として養子に入った長岡興彭は細川忠利の玄孫であり、光秀、ガラシャの血をひいている。

 明智光秀 - 珠(細川忠興室:細川ガラシャ)- 忠利 - 光尚 - 利重 - 宣紀 - 長岡興彭(細川刑部家の長岡興行の養子)
皇室

光秀の娘、珠(細川ガラシャ)と細川忠興の子孫。光秀の9代後の子孫である仁孝天皇と10代後の子孫である正親町雅子の間に孝明天皇が誕生し、以降の歴代天皇に血縁関係が続いている。

明智光秀 - (細川忠興室:細川ガラシャ) - 多羅(稲葉一通室) - 信通 - 知通 - 恒通 - 女(勧修寺顕道室) - 経逸 - ?子光格天皇典侍) - 仁孝天皇 - 孝明天皇 - (以降歴代天皇)


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