明智光秀
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ただし、光秀と同年代に生きた立入隆佐が天正7年(1579年)頃に記した『立入左京亮入道隆佐記』には「美濃国住人ときの随分衆也」とあり、周囲の人間から土岐氏と関連した人物であると認識されていたことも事実である[29]

林則夫氏所蔵「明智光秀公家譜古文書」や「明智氏一族宮城家相伝系図書」などでは、明智光綱には実子がおらず、妹が嫁いでいた山岸信周(進士信周)の子(後の光秀)を養子としたとしている[30]

光秀は自身の出自に関する証言をほとんど残していないが、『多聞院日記天正10年(1582年)6月17日条やルイス・フロイスの『日本史』には、義昭の御供衆であった細川藤孝に仕えていたことが記されている。また、『松雲公採集遺編類纂』所収の「戒和上昔今禄」という記録には、天正5年(1577年)に発生した興福寺と東大寺の相論の奉行を務めた光秀が「我、先祖致忠節故、過分ニ所知被下シ尊氏御判御直書等所持スレトモ」と発言したことが記されている。この記述に従えば、光秀の祖先が足利尊氏に仕えてその書状を光秀が持っていたということになる。つまり、光秀の家は、当初は室町幕府御家人に連なる方向にあったが、その後、守護土岐氏に仕える被官になっていった、土岐明智氏の傍流であったととらえた方がよい[31]。明智氏初代の明智頼重は足利尊氏・足利義詮足利義満の足利将軍家に仕えたとされる。

「光」の字を持つ明智(明地、明知)氏は、明地光高、明知光重、明地光兼など複数人が確認できるが、光秀との関係は不明である[32]

光秀は将軍・足利義昭上洛早々の永禄11年(1568年)11月15日、近衛稙家の子で聖護院門跡道澄公家の飛鳥井雅淳、連歌の宗匠・紹巴ら錚々たる人々が出座した格式高い連歌の席に、弘治年間(1555年-1558年)からしばしば連歌会に名を連ね、一流文化人と認められていた細川藤孝に伴われて同座している。このような格式高い連歌会に同座できたことから、光秀が無名時代に相当高いレベルの連歌の素養を身に付けていたこと、および将軍・足利義尚、将軍・足利義材、将軍・足利義澄直臣の奉公衆であり、寛正3年(1462年)に頼宣の名で細川勝元と連歌に同座して以来、細川管領家が毎年催した細川千句に参加するなど、連歌を通じて幕府朝廷・連歌界に幅広い人脈を有し、武家でありながら、延徳元年(1489年)12月に宗祇から連歌宗匠の後任に推薦され、明応4年(1495年)1月6日の『新撰菟玖波祈念百韻』に出座し、『新撰菟玖波集』に9句入集を果たした、当時の連歌界の超有名人である明智玄宣(光高)[注釈 13]曾孫(光秀の父明智光兼、祖父明智光重)の可能性が指摘されている[33]

応仁の乱では、玄宣は幕府奉公衆として東軍に属したが、玄宣の叔父の明智頼弘は西軍に与せず美濃に帰って領地を守った。また、美濃守護の土岐成頼は西軍の主力として戦い、応仁の乱後は、西軍の担いだ足利義視義材父子を文明9年(1477年)から延徳元年(1489年)までの12年間美濃に保護したので、玄宣と成頼や義材との関係は良好でなかったと推測される[33]。玄宣の系統は土岐明智氏嫡流であったが、内部抗争が起こり、明応4年(1495年)に将軍・足利義高(後に義澄)の裁定により、従兄弟の頼定と美濃の知行が折半となった。文亀2年(1502年)、頼定の子・頼尚が知行の大部分を支配してその正当性を主張し、嫡男の頼典を義絶して頼明に家督を譲った。玄宣の系統はその後没落した[34]。『明智軍記』などによると、光秀は義絶された頼典の孫となっている。

当時の美濃国守護土岐政房の後継者争いが起こり、嫡男の頼武守護代斎藤利良が担ぎ、次男の頼芸を小守護代の長井長弘とその家臣の長井新左衛門尉斎藤道三の父)が担いだ為、戦となった。永正14年(1517年)12月、頼武派が勝利して、頼芸は尾張に逃れた。永正15年(1518年)8月、永正9年(1512年)に守護の土岐政房と対立して尾張に逃れていた前守護代の斎藤彦四郎が加勢して、頼芸は美濃に攻め入って勝利し、頼武は越前に逃れた。永正16年(1519年)、頼武は朝倉氏の援護を得て美濃に侵入し、美濃北半分を支配して守護となり、永正17年(1520年)に大桑城を築いた。大永5年(1525年)8月、頼武と頼芸の間で大乱が起こり、頼武は死亡したか、越前へ逃れたと見られる。大永9年(1526年)9月、玄宣の子で奉公衆の明智政宣が京から東国に赴いた[33]
生年

生年は信頼性の高い同時代史料からは判明せず、不詳である[2]。ただし、後世の史料によるものとして、『明智軍記』などによる享禄元年(1528年)説、および『当代記』による永正13年(1516年)説の2説がある[2]。また、近年その存在が広く紹介されるようになった津山藩森家の記録である『武家伝聞録』[35] 所収の「古今之武将他界之覚」(巻一)では享年七十と記されており、逆算すると永正10年(1513年)となる。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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