明恵
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寛喜3年(1231年)には、故地である紀州施無畏寺の開基として湯浅氏に招かれた。翌寛喜4年(1232年)1月19日、弥勒の宝号を唱えながら遷化した[2]享年60(満58歳没)。
人物

明恵は和歌にも長けており、家集『明恵上人和歌集』がある。次の短歌が知られる。

むらさきの 雲のうえへにぞ みをやどす 風にみだるる 藤をしたてて

あかあかや あかあかあかや あかあかや あかあかあかや あかあかや月

夢の世の うつつなりせば いかがせむ さめゆくほどを 待てばこそあれ(新勅撰和歌集選)高山寺にある明恵上人廟

また、栄西請来の種子を栂尾にまき、茶の普及の契機をなしたことは有名である[2][注釈 5]

承久の乱で敗兵をかくまったことを機縁として、鎌倉方の総司令官として入京した六波羅探題初代長官(のちの鎌倉幕府第3代執権北条泰時との親交がはじまっている。山本七平によれば、泰時は明恵の学徳を深く尊敬し、明恵は泰時の政治思想、とくに御成敗式目の制定の基礎となる「道理」の思想形勢に大きな影響を与えている[12]。その学徳は後鳥羽上皇・北条泰時のみならず、公家では九条兼実九条道家西園寺公経武家では安達景盛、婦人では平徳子(建礼門院)など多くの人びとからの尊崇を集めた[1][5]
明恵の非人救済神話

明恵の死後、弟子の喜海は『高山寺明恵上人行状』を書きあらわしたが、そのなかに、釈尊が衆生救済のためには、みずからの身命を顧みなかったと聞いた明恵が、16歳で登壇受戒してまもない頃、紀伊の藤代王子[注釈 6]ハンセン病患者を助けるため自己の身肉をあたえる覚悟であったという一節がある[13]。これは一種の非人救済神話といわれている[13]
明恵の著作

おもな著書には、浄土宗をひらいた法然の『選択本願念仏集』(選択集)を読んでこれを批判した上述の『摧邪輪』(ざいじゃりん、正しくは『於一向専修宗選択集中摧邪輪』)全3巻、『同荘厳記』1巻がある。

華厳経』で高唱される菩提心を重視した明恵は、『摧邪輪』・『同荘厳記』において、称名念仏こそが浄土往生の正業であり、もっぱら念仏を唱えることによって救われるとする法然の教説(専修念仏)に対して、その著作には大乗仏教における発菩提心悟りを得たいと願う心)が欠けているとして、激しくこれを非難している。

40年におよぶ観行での夢想を記録した『夢記』のほか、著作は70余巻におよび、『唯心観行式』『三時三宝礼釈』『華厳仏光三昧観秘宝蔵』『華厳唯心義』『四座講式』『入解脱門義』『華厳信種義』『光明真言句義釈』などがある[1][2]
著作の新版


『明恵上人集』 久保田淳、山口明穂訳注、岩波文庫、初版1981年、改版2009年/ワイド版1994年。

『明恵上人伝記』 平泉洸訳注、講談社学術文庫、初版1980年

日本思想大系15 鎌倉旧仏教』(岩波書店、初版1971年、新装版1995年)- 田中久夫校注「摧邪輪 巻上」と「却癈忘記」(弟子長円の筆記によるもの)

日本古典文学大系83 假名法語集』(岩波書店、初版1964年)- 宮坂宥勝校注「栂尾明恵上人遺訓」

『大乗仏典 中国・日本篇 第20巻 栄西 明恵』(中央公論社、1988年)- 高橋秀栄(現代語訳)注解「却廃忘記」と「光明真言土沙勧信記」

日本の名著5 法然 明恵』(中央公論社、初版1971年、新版・中公バックス、1983年)- 佐藤成順(現代語訳)注解で「摧邪輪(抄)」と「栂尾明恵上人遺訓」

『明恵上人歌集 和歌文学大系60』 平野多恵注解(久保田淳監修、明治書院、2013年)。ISBN 4757601484

明恵に関する評伝・随筆・作品研究等

田中久夫『明恵』吉川弘文館<人物叢書>、1961年、新装版1988年。ISBN 4642051260

河合隼雄『明恵 夢を生きる』京都松柏社、1987年4月(法蔵館販売)。講談社<講談社α文庫>、1995年10月。ISBN 4062561182

奥田勲『明恵 遍歴と夢』東京大学出版会、1994年11月。ISBN 4130230247

紀野一義『明恵上人 静かで透明な生き方』PHP研究所、1996年10月。ISBN 4569552951

磯部隆『華厳宗沙門 明恵の生涯』大学教育出版、2006年

『明恵上人 夢記訳注』奥田勲・平野多恵・前川健一編、勉誠出版、2015年2月。ISBN 4585210245


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