明六雑誌
[Wikipedia|▼Menu]
『明六雑誌』のこれまで述べてきたような特徴は、彼らの論説に混じって掲載された翻訳の中にその源泉を見ることができる。雑誌に掲載されたのは全156本中16本が翻訳であって、中村正直が7本を占めている。翻訳は特に初期に多く掲載された。取り上げられたのは、ベーコントマス・ホッブススペンサー、ブルンチュリ、ヘンリー・バックルなどであった。
主要な論争

『明六雑誌』は識者同士が議論すること、そしてそれを誌上に掲載することで世論を喚起しようとした新しいメディアである。雑誌に掲載された議論については、その目論見通り様々な反響を呼び、各種新聞には多くの投書が寄せられたという。誌上における有名な論争を挙げるならば、以下のものを無視することはできない。
学者職分論争

この論争は福澤が『明六雑誌』の外から提起したものであった。福澤の代表作『学問のすすめ』第4篇において、学者とは官職に就くべきでなく、野にあるべきである。啓蒙の目的の一つは民衆の無気力・権力への卑屈さを克服することにあるが、それらは専制政府によってもたらされる。つまり真に啓蒙を行おうとすれば、官途にあってはできない、民間の力によって成し遂げられねばならないというのが、福澤の意見であった。そして在官学者を「恰〔あたか〕も娼妓の客に媚るが如し」と痛烈に批判したのである。

これに対して加藤、森、津田、西ら在官組が反論した。ただ福澤も他の同人も基本的に官民協調論に立つことは共通しており、批判は福澤が民に比重を置きすぎているという点に加えられたに過ぎない。それでも在野精神旺盛な福澤は、明六社にあってやや異色なところがあって、他の在官啓蒙家たちに批判的な部分があった。明六社には最後まで在籍したものの、『明六雑誌』には僅か三本しか論説を発表していない。この点につき『学問のすすめ』や『文明論之概略』の執筆時期と重なるとはいえ、少なすぎると指摘する研究もある(戸沢1991)。明六社同人内の官/民をめぐる思惑のすれ違いは、やがて『明六雑誌』停刊の際に噴出することになる。
民撰議院論争民撰議院設立建白書・序文。『明六雑誌』でもこれを巡り論争が交わされた。

『明六雑誌』が発行されていた時期は、ちょうど自由民権運動の初期と重なる。1874年、板垣退助民撰議院設立建白書を政府に提出したが、これをめぐって明六社内でも議論が戦わされた。議論の中心となったのは、加藤弘之の民撰議院時期尚早論(「民撰議院不可立の論」第4号)であった。加藤は議院そのものには反対しないものの、国民のレヴェルがまだ議院を必要とするほど発展していないと断じ、啓蒙を通じて文明化を図り、その上で議院制度を導入しようと主張した。いわば漸進論である。森有礼や西周、中村正直、阪谷素、神田孝平もこれに同調する立場であった。一方、西村茂樹は国民が「半開」(文明と野蛮の中間)にあるから時期尚早というのは理由にできない、むしろ議院を設立することで民衆を「文明」へと導くべきと主張し、民撰議院を設立することに積極的な賛成を表明している。民撰議院設立自体を啓蒙の契機と見なす立場であった。議院賛成派は西村の他、津田真道、福澤であった。

『明六雑誌』の論争は、雑誌の枠を超えて反響があった。加藤の時期尚早論に対し、馬城臺二郎(大井憲太郎)が東京日日新聞に反論を掲載した。馬城は「三権分立」で理論武装した上で、藩閥政治を打破するためには、まず民撰議院設立が必要であると述べた。これに対し加藤は「半開」の国家で議院を設立しても「有司専制」(官僚独裁)に陥るだけだとして、最後まで慎重であった。

この論争はあくまで民撰議院の設置時期に限定されるものであって、それ以上の深みは無かったけれども、民撰議院が世情の関心の的となったことで、本格的な自由民権運動の種子をまいたと評価されている。
妻妾論論争

この論争は、森の「妻妾論」(第8号他、下記外部リンクで実物写真を見ることができる)を契機に起こったものである。森は非常に西欧文明に傾倒した人物で、その男女観・結婚観も西欧を基準としていた。すなわち「妻妾論」の根底には 一夫一婦制が自然という観念があったし、また自身の結婚も契約結婚であった。そういう森の眼には、日本における畜妾制・妻妾同居は不自然極まりないものとして映じた。それ故「妻妾論」では夫婦は必ず平等であるべきであって、家父長専制は文明に悖る、女性には家庭内の要である妻としての役割、教育を担う母としての役割があって、それを尊重すべきとした。つまり役割論に基礎を置いた夫婦平等がその内容であった。森の夫婦同等論は、夫婦同権論にまで踏み込むものでは無かったが、その後自由民権運動などと交叉する中で婦権拡張論として受け取られるようになっていった[10]

これに対し鋭い対立を見せたのが、加藤弘之と津田真道であった。加藤は「夫婦同権の流弊論」(第31号)において、西欧のレディファーストの慣習を取り上げ、これを東洋の人が真似るのは夫婦同権の行き過ぎた結果だと批判し、婦権拡張に極めて冷淡であった。その点津田も変わりない。加藤らは婦権拡張にも批判的で、婦人参政権を批判し、加藤は少年・凶人〔ママ〕・犯罪者・極貧者と並んで婦人に選挙権を与えないことを「正理」とした。

結果から言えば「妻妾論論争」は、夫婦間の私的な空間における男女平等については積極的な問題提起をしたが、公的な空間における政治的・社会的な男女同権については消極的姿勢に甘んじたと言って良い。しかし日本における家父長的家族制度に批判的な視線を投げかけたことにより、徐々に西欧的結婚観への支持を広げ、 1882年(明治15年)には妾という存在は少なくとも法的には認められないものとなった。
国語国字論争

上記論争は様々な影響を残したが、それ以外にも見逃せない論争がある。たとえば創刊号において掲載された国語国字論争がそうである。自国の言語をどう表記するかということ、つまり国語国字問題は、文明開化を推進するにあたって、遅れた文明とされた東洋文明から離脱し、西洋文明に仲間入りする方法の一つとして論じられた。中国文明の影響を脱すること、文字を簡単にして読めない人を無くし文明化をはたすというのが、その理由であった。明六社誕生以前、まずこの問題について意見表明したのは前島密で、彼は漢字を廃止し、平仮名英語のように分かち書きにすることを提唱した。しかし、『明六雑誌』創刊号に掲載された西周の「洋字を以て国語を書するの論」は、より過激であった。漢字どころか仮名文字も廃し、「洋字」すなわちアルファベットを用いたローマ字日本語を表記すべきと主張した。西欧言語習得が簡単になること、翻訳の際、西欧学問の用語をそのまま、つまり適切な訳語を作る苦労無しに、移入できることを理由とした。

これに対し西村茂樹は同じ号で、表記をどうするかは開化が進めば論ずればよく、今は教育などを優先すべきと反論した。また清水卯三郎は、前島密と同様平仮名を用いるべきとの論説を発表した(第七号)。これは一般民衆にも知られているからという理由からであった。しかし雑誌内ではこれ以上の議論にはならず、他の同人からの論説は掲載されていない。ただどちらの説もその後受け継がれていった。まず仮名文字表記論の方は清水が、大槻文彦らと1883年(明治16年)に「かなのくあい(かなの会)」を設立し、精力的に運動を展開した。発足当時200名だった会員は、翌年には2000名を超える会員を獲得した。またローマ字表記論は1884年(明治17年)「ローマ字会」が設立された[11]
影響について
読者層

明六社が発足してより約一年後、社長であった森有礼は『明六雑誌』の毎月の売れた部数は平均3205冊であると演説で述べている。現在の我々の感覚からすると、存外少ない観があるが、雑誌というものが初めて登場した明治初期にあってこれは驚異的な売れ行きであったと言わねばならない[12]。それは広範な読者層を想定させるに十分であろう。また『明六雑誌』の論説は、各地の新聞に(無断?)転載されることも多かったので、さらに一層の広がりを持っていたといえる。雑誌に対する熱い支持は、以下のような新聞への投書に見ることができる。明六雑誌は当今の有名の諸学士論著する所にして、議事の確、行文の実なる、其警醒〔けいせい、警告・注意喚起〕の益、提撕〔ていせい、後進を励まし指導すること〕の功に於て他書の比す可きに非れば、在官伏野を問はず必らず一部を挟んで之を読まざるを得ず。(『横浜毎日新聞』明治7年5月2日、〔〕内加筆者)

数々の投書にある署名からして、官吏や学生、書生、村役人、旧士族豪農、豪商など知識人層に読まれていたことが分かる。地域という点からいえば、雑誌は東京周辺だけで読まれただけではなく、大阪広島青森など全国各地の人士にも読まれていた。その中に植木枝盛がいた。彼は16歳の時『明六雑誌』を読み、感動して高知から上京して定例演説会に足繁く通うほどであった[13]。植木は明六社の演説会と『明六雑誌』に触れて自由民権に目覚めていったが、これは『明六雑誌』が、地方人士の自由民権運動に参加するきっかけとなった一例である。

『明六雑誌』の登場と広範な読者の獲得、その論説の地方新聞への転載とそれへの反響としての読者の投稿、これらは様々な問題関心を共有する言論空間を生み出した。各地の知識人層を、自由民権問題を通じて結びつかせ、同じ問題意識を共有させたといえる。それは明六社が標榜する啓蒙の成功を意味した。この言論空間の痕跡は以下に見るように、現在の我々が使用することばにも見つけることができる。
和製漢語

新思想の紹介は、必然的に新たな語彙の発明を伴う。それまで無かった概念にネーミングする必要があるからである。そしてその定着の為には、その語彙を使用する共通の場とある程度の広がりが必要とされよう。『明六雑誌』はそれを提供する役割を果たした。上記“individual”に当てられた様々な訳語はその一端であるが、“individual”の場合、『明六雑誌』の訳語は定着しなかった。しかし文明開化に非常な影響力を持っていたこの雑誌に由来する新語彙・訳語は多い。それらは、いわば『明六雑誌』発の和製漢語である。あるいは、発明せずとも雑誌で使用されることで一般化した語彙もある。両者を分かつことは難しいので厳密には分類せず、『明六雑誌』に登場し、現代まで残った語彙のうち代表的なものを列挙する。科学、農学、洋学、洋風、珪素、砒素、電磁、冤罪、検事、議会、領事、領事館、圧政、学制、原価、資金、外債、社交、社用、官権、広告、眼識、痴呆、熱心、保健、確保、確立、過食、玩具、現象、工場、申告

この他従来からあったことばや中国由来のことばを借用し、意味を転用したものもある。代表的なものとしては「国債」、「哲学」、「社会」などがある。

定着した新語彙のうちのいくつかは、その後東アジアにおとずれた日本ブームによって、隣国の中国や朝鮮にも伝播した。「社会」などは元々南宋の書『近思録』(朱子呂祖謙共同編集)に登場する語彙であるから、装いも新たに大陸に逆輸入されたといってよい[14]。そうした側面からすると、『明六雑誌』の影響は日本国内に留まるものではなく、周辺諸国にも及んでいたと言える。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:60 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef