早川雪洲
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^ 雪洲は自伝で「1890年6月10日生まれ」であると述べて、4歳年をごまかしている。鳥海美朗によると、戸籍謄本では出生日が1886年6月10日となっており、雪洲がそれより若い年齢を称したのは、俳優としてのイメージ戦略であるという[17]。
^ 長女のトキは早世し、金太郎が生まれた時にはこの世にいなかった[18]。そのため雪洲は自伝で「5人兄姉の三男坊でしかも末子だった」と述べている[20]。また、金太郎が3歳から10歳の時まで、早川家には養兄の熊次郎がおり、彼を含めると7人兄姉となった[18]。
^ 金太郎が小学校を卒業したのは1899年であり、海城学校に編入するまで2年間の空白がある。中川織江は、與一郎と並ぶ千田村の名士だった小谷仲治郎の証言から、その空白期間に金太郎が東京の錦城中学校(現在の錦城学園高等学校)に入学するも、素行不良で退校させられた可能性があると述べている[25]。
^ この時期の雪洲の短編映画を製作したのは、ケー・ビー・ピクチャーズ(英語版)、ドミノ・フィルム・カンパニー、ブロンコ・フィルム・カンパニーなどの会社であるが、この3社はニューヨーク・モーション・ピクチャー・カンパニーの傘下にあり、同社のカリフォルニア側の映画製作の総監督であるインスが取り仕切っていた[72][73]。
^ 『チート』の前に公開された『タイフーン』も、日系人の間で排日映画として問題になっている[95]。
^ ラスキー社は、1916年にフェイマス・プレイヤーズ・フィルム・カンパニーと合併してフェイマス・プレイヤーズ=ラスキーとなり[100]、配給部門としてパラマウントを取得した。それからしばらくの間、フェイマス・プレイヤーズ=ラスキーはラスキー社を含むいくつかの子会社の持株会社として機能していたが、1917年12月29日にすべての子会社を自社に吸収した[101]。この会社が後にパラマウント・ピクチャーズと名を変えて、ハリウッドのメジャー映画スタジオのひとつに発展した[100]。
^ 日本人活動写真俳優組合の主なメンバーには、青木鶴子、青山雪雄、トーマス・栗原、ヘンリー・小谷、関操、木野五郎、徳永文六、藤田東洋、阿部豊、山本冬郷、ジョージ・桑(英語版)などがいる[104]。
^ 社名の「ハワース」は、早川の「Ha」と同社で仕事を共にした映画監督ウィリアム・ワーシントンの「Worth」からとった[109]。
^ 当時は副大統領だった、次のカルビン・クーリッジ大統領とも後に面会している[16]。
^ 自伝によると、雪洲は当初の張りぼてのセットで撮ることに不満を示し、ダンス会で出会った女性に愚痴をこぼしたところ、その女性は海軍大臣の娘で、父親に直談判して軍艦使用の許可を取り付けてくれたという[144]。
^ コマンド・パフォーマンスは御前演劇のことで、国王が自ら指名した俳優の芝居を上演するのが習わしだった[146]。
^ その前の11月中にも、雪洲はロンドン・コロシアムで『神の御前』を国王の前で上演しており、引き続き行われた一般公演は満員御礼の成功を収めた[148]。
^ 邦題の別タイトルは『三人の帰宅』1950年作品とも[184]。
^ 出版記念パーティーの発起人に名を連ねている主な人物には、吉田茂、東久邇宮稔彦王、三木武夫、藤山愛一郎、正力松太郎、石橋正二郎、榎本健一、徳川夢声、岡本太郎、東郷青児、近衛秀麿、服部良一、山田耕筰、藤原義江、三島由紀夫、江戸川乱歩、大佛次郎、尾崎士郎、吉屋信子、八田一朗、浪越徳治郎がいる[206]。
^ 『戦場よ永遠に』に出演した早川雪洲【画像1】【画像2】と青木鶴子【画像3】(『Hell to Eternity (1960)』IMDb[211])
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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