金太郎は七浦高等小学校に進学したが[25]、父の命で海軍大将になるのを将来の目標に定め[30]、小学校卒業後の1901年、当時海軍軍人を目指す少年たちが集まっていた東京の海城学校(現在の海城中学校・高等学校[31]、金太郎の編入の前年に海軍予備校から改称していた)に編入した[25][32][注 4]。金太郎は東京市神田区東龍閑町に下宿し、そこから海城学校に通い、放課後には剣道を習った[32][33]。夜は正則英語学校(現在の正則学園高等学校)に通い、英語は当時最も成績のよい教科となった[30]。他校の生徒とは殴り合いの喧嘩を頻繁に行い、それを見かねた叔父に「殺伐な男になっちゃいかん」と言われ、いとこと一緒に華道と茶道を渋々習わされたこともあった[33]。この頃、金太郎は徳冨蘆花の小説『不如帰』を読んで感涙し、これが舞台化されると学校をさぼって観に行った[30]。 1904年、海城学校を卒業した金太郎は江田島の海軍兵学校を受験し、1次試験の学科試験は合格した[30][34]。しかし、2次試験の体力テストを控えた夏の帰省中、海で素潜りをした時に鼓膜が破れ、化膿して顔の半分が腫れ上がった[34]。耳の炎症はなかなか治らず、頭半分を包帯でぐるぐる巻きにした状態で体力テストの会場に行き、「耳に疾患があるのに軍人が務まるわけがない」として不合格となった[34][35]。海軍大将の夢を完全に閉ざされ、父親を失望させてしまったと感じた金太郎は、ある夜、実家の蔵の2階に閉じこもり、東郷平八郎の肖像の前で短刀で腹を切った[35][36]。野上英之によると、金太郎の切腹未遂は、今日考えると子供っぽい直截的な行為と発想だが、幼い頃から喧嘩に負けると父に「腹切って死んでしまえ」などと怒鳴られていた背景があったため、この成り行きは十分理解できるものであるという[35]。切腹行為は吠えだした飼い犬に気付いた家人に発見され、金太郎は一命をとりとめたが、傷が回復するまでに5週間もかかった[35][36]。困り果てた與一郎は、金太郎を高塚山の禅寺にしばらく預けた[35]。千葉県沖で座礁したダコタ号(1907年)。
受験失敗と渡米決意
この出来事は、海軍入りの夢が破れて悲観していた金太郎に刺激を与え、アメリカへ渡るという新たな目標を与えるきっかけとなった[35]。渡米を決めた理由について、自伝では「遊学」のためと述べているが[20]、複数の史料では「ダコタ号の船長から、アメリカ行きを勧められたため」と記されており、地元では「ダコタ号の乗客だった若いブロンドの女性を追っかけようとしたため」という言い伝えもある[37][40]。