旧制高等学校
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同計画は実施には至らず、高等学校令1条を改正して既存の高等学校が共学化する法的根拠を設けるに留まったものの[7]、これを受けて女子の入学を許可する高校が現れた。女子生徒は概してお客さん扱いで大事にされ、卒業後は、帝大や新制大学に進学し、教職・研究職に就いた者が多かった[8][注 4]

また、医学・歯学教育を大学課程に一元化する改革も同時に進められ、旧制医学専門学校および旧制歯科医学専門学校は旧制大学に昇格しうるかどうか審査され、大学昇格が適当なA級校と不適当なB級校に判別された。その結果、戦災による被害も相まって医学専門学校は6校が、歯科医学専門学校は3校が大学昇格の基準を満たさないB級校とされて廃校の対象となり、それらの学校に在籍していた生徒は、1学年留年の上でA級校に転校するか、同じく留年の上で旧制高等学校あるいは大学予科に転校することが求められた。そのため、B級校の多くは1947年に旧制高等学校に改組して引き続き生徒の教育を行うこととなった[注 5]。これらの高等学校は医大の予科的な位置づけであり、いずれも高等科の理科のみが設置されたもので、戦後特設高等学校(ないし単に特設高等学校)と呼ばれる(ただし、官立徳島高等学校は異なる経緯で旧制高校となった)。

そのような旧制高校にも終焉のときが迫りつつあった。廃止に積極的に動いたのは教育刷新委員会副委員長の南原繁らである。南原自身も一高出身であったが、旧制高校の3年間は遊んでばかりで、学習内容は旧制中学のものを手直しした程度のものだったと、それほど旧制高校の教育に執着を持っていなかったことを後に証言している。南原は、ジェントルマンであれと強調した、一高時代の校長・新渡戸稲造への傾倒を繰り返し述べていたことから、バンカラの気風に違和感を覚えていたことが窺える[10]

戦後の学制改革によって、旧制高等学校の多くは新制大学教養部文理学部の母体となり、原則として旧制大学や他の高等教育機関と統合の上で1950年に廃止された[注 6]

旧制高校在学中に学制改革によって新制大学に入学した人物には作家の野坂昭如(新潟高等学校から新潟大学、のち早稲田大学)、高橋和巳松江高等学校から京都大学)、開高健大阪高等学校から大阪市立大学)、小松左京(第三高等学校から京大)、堤清二成城高等学校から東大)、井原高忠(学習院高等科から慶大)、旧制大学を前身としない大学学部卒ではじめて事務次官になった小長啓一(第六高等学校から岡山大学)らがいる。また、映画監督の山田洋次は山口高等学校在学中に学制改革に遭遇し、新制東京都立小山台高等学校から東大に進んだ。

学制改革実施前、天野貞祐を中心に「ジュニアカレッジ(改革後の短期大学に相当)」として旧制高等学校存続を模索する動きもあったが、幻に終わった。

旧制高等学校を懐かしむ卒業生は戦後においても日本寮歌祭を開いたり、「日本の教育改革を進める会」を結成したりして旧制高等学校の長所を訴えた。しかし、あくまで国立の高等教育機関としての復活を希求していたせいか、私立でエリートに対する一般教養教育の短期大学高等専門学校を設立する動きはなかった。ただし、公立ではこういう学校が存在した。1950年に設立され、1955年に廃止された和歌山県立理科短期大学がそれである。

新制東京大学教養学部の設置は旧制高等学校の教養主義的な伝統を残そうとした動きである。また、終戦直後に国際基督教大学 (ICU) 教養学部の設立に携わった旧帝国大学卒の有力者たちはそのリベラル・アーツ・カレッジの理念に旧制高等学校の良さを継承させられる可能性を期待した。
入試・教育課程・卒業
入試旧制第六高等学校書庫

1902年(明治35年)4月25日、文部省告示第82号「高等学校大学予科入学試験規定」により、「総合共通選抜制」が行われることになった。これは受験者に全国の高等学校を自由に選択させ、全国統一の入試を行い答案を中央に集め採点し、成績順で旧制高校収容総数だけの合否を決め、その合格者をあらかじめ提出させてある3つの志望順を参考に、各校に割り振るという制度であったが、不本意入学者の学習意欲低下という弊害があり、総合選抜制は1908年廃止となった。翌年から七高を除いた各校が試験問題を統一した。

1917年度から1918年度まで、再び総合共通選抜制が復活した。

1919年度から学校別入試となる。

1926年から官立高等学校受験者の便宜を考慮して、官立高等学校を2つの班に区分し、各班から1校ずつ志望指定できるものとした。第1班は一高・五高・七高・新潟高・水戸高・山形高・松江高・東京高・大阪高・浦和高・静岡高・姫路高・広島高。第2班は二高・三高・四高・六高・八高・松本高・山口高・松山高・佐賀高・弘前高・福岡高・高知高。

1928年度から学校別入試に戻る。

クラス編成武蔵高等学校の試験風景(1935年)

高等学校令 (1894年) による大学予科は第一部(法・文)、第二部(工・理・農)、第三部(医)に分かれていた。第一部は第一外国語により細分され、法科志願者のうち、英語を主とする科は一部英法、ドイツ語を主とする科は一部独法、文科大学志望者のうち、英語を主とする科は一部英文、ドイツ語を主とする科は一部独文となる。

改正高等学校令 (1918年) により新しく創設された7年制の高等学校には尋常科と高等科が設けられることとなった。また既存の大学予科のみの3年制の高等学校は大学予科を高等科に名称を改めた。高等科は、文科と理科に大別され、履修する第一外国語により、文科甲類(英語)、文科乙類(ドイツ語)、文科丙類(フランス語)、理科甲類(英語)、理科乙類(ドイツ語)、理科丙類(フランス語)と細分された。理科乙類は医学部・薬学部・農学部進学コースとなっていた。ただし、フランス語を第一外国語にする類を置いた高校は、第一高等学校・第三高等学校・大阪高等学校・浦和高等学校・福岡高等学校・東京高等学校・静岡高等学校など少数にとどまり、中でも理科丙類を設置したのは、大阪高等学校、東京高等学校のみである。
軍事教練

1925年(大正14年)4月13日付で陸軍現役将校学校配属令が公布され、学校教練制度が発足した。


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