八高出身のエッセイスト・三國一朗は東京帝大に入学した際、7年制高等学校出身の東大生を目撃し、「異様なタイプの東大生の一群」と評している[4]。7年制高等学校はスマートだが重量感に乏しい受験秀才と文芸青年を生み出したとの評価もある[5][注 3]。
ただし、官公立高校では、東京高等学校尋常科は設立からわずか13年、授業開始から12年で廃止されることになり、その後も浪速高等学校尋常科、公立から官立に移管した富山高等学校、台北高等学校の各尋常科も相次いで廃止され(東高尋常科は戦後の一時期、募集を再開)、学制改革期まで尋常科募集を続けたのは、東京府が設立した府立高等学校のみであった。
なお、一高をはじめとする官立高校の多くは当初の形態通り、3年制の高等科だけを置いた。
終焉「学制改革#旧制高校等から新制大学へ」も参照
第二次世界大戦終結後、日本を占領統治した連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)が主導した戦後改革は高等学校のあり方にも及んだ。終戦後、文部省は女子教育刷新の一環として、男子の高等学校に対置する形で女子を対象とする教育機関として「女子高等学校」を新設する計画を立てた[7]。同計画は実施には至らず、高等学校令1条を改正して既存の高等学校が共学化する法的根拠を設けるに留まったものの[7]、これを受けて女子の入学を許可する高校が現れた。女子生徒は概してお客さん扱いで大事にされ、卒業後は、帝大や新制大学に進学し、教職・研究職に就いた者が多かった[8][注 4]。
また、医学・歯学教育を大学課程に一元化する改革も同時に進められ、旧制医学専門学校および旧制歯科医学専門学校は旧制大学に昇格しうるかどうか審査され、大学昇格が適当なA級校と不適当なB級校に判別された。その結果、戦災による被害も相まって医学専門学校は6校が、歯科医学専門学校は3校が大学昇格の基準を満たさないB級校とされて廃校の対象となり、それらの学校に在籍していた生徒は、1学年留年の上でA級校に転校するか、同じく留年の上で旧制高等学校あるいは大学予科に転校することが求められた。そのため、B級校の多くは1947年に旧制高等学校に改組して引き続き生徒の教育を行うこととなった[注 5]。これらの高等学校は医大の予科的な位置づけであり、いずれも高等科の理科のみが設置されたもので、戦後特設高等学校(ないし単に特設高等学校)と呼ばれる(ただし、官立徳島高等学校は異なる経緯で旧制高校となった)。
そのような旧制高校にも終焉のときが迫りつつあった。廃止に積極的に動いたのは教育刷新委員会副委員長の南原繁らである。南原自身も一高出身であったが、旧制高校の3年間は遊んでばかりで、学習内容は旧制中学のものを手直しした程度のものだったと、それほど旧制高校の教育に執着を持っていなかったことを後に証言している。南原は、ジェントルマンであれと強調した、一高時代の校長・新渡戸稲造への傾倒を繰り返し述べていたことから、バンカラの気風に違和感を覚えていたことが窺える[10]。
戦後の学制改革によって、旧制高等学校の多くは新制大学の教養部や文理学部の母体となり、原則として旧制大学や他の高等教育機関と統合の上で1950年に廃止された[注 6]。
旧制高校在学中に学制改革によって新制大学に入学した人物には作家の野坂昭如(新潟高等学校から新潟大学、のち早稲田大学)、高橋和巳(松江高等学校から京都大学)、開高健(大阪高等学校から大阪市立大学)、小松左京(第三高等学校から京大)、堤清二(成城高等学校から東大)、井原高忠(学習院高等科から慶大)、旧制大学を前身としない大学学部卒ではじめて事務次官になった小長啓一(第六高等学校から岡山大学)らがいる。また、映画監督の山田洋次は山口高等学校在学中に学制改革に遭遇し、新制東京都立小山台高等学校から東大に進んだ。
学制改革実施前、天野貞祐を中心に「ジュニアカレッジ(改革後の短期大学に相当)」として旧制高等学校存続を模索する動きもあったが、幻に終わった。
旧制高等学校を懐かしむ卒業生は戦後においても日本寮歌祭を開いたり、「日本の教育改革を進める会」を結成したりして旧制高等学校の長所を訴えた。しかし、あくまで国立の高等教育機関としての復活を希求していたせいか、私立でエリートに対する一般教養教育の短期大学や高等専門学校を設立する動きはなかった。ただし、公立ではこういう学校が存在した。1950年に設立され、1955年に廃止された和歌山県立理科短期大学がそれである。
新制東京大学教養学部の設置は旧制高等学校の教養主義的な伝統を残そうとした動きである。また、終戦直後に国際基督教大学 (ICU) 教養学部の設立に携わった旧帝国大学卒の有力者たちはそのリベラル・アーツ・カレッジの理念に旧制高等学校の良さを継承させられる可能性を期待した。