学制改革に際しては、7年制高等学校の高等科は新制大学へ、尋常科は新制中学校・高等学校へそれぞれ移行したと考えるのが一般的である。
旧制東京高等学校
旧制武蔵高等学校
旧制台北高等学校講堂
(現:台湾師範大学礼堂)
種別設立年学校名新制大学新制中学校・高等学校 以下、狭義の旧制高等学校(高等科)だけでなく、旧制中学に相当する尋常科の併設構想(すなわち7年制高等学校)についても述べる。
官立1921東京高等学校東京大学教養学部東京大学附属学校[注 28]
1922台湾総督府台北高等学校(廃止、国立台湾師範大学に転換)
公立1923(富山県立)富山高等学校(1943年に官立移管[注 29])
1926(大阪府立)浪速高等学校大阪大学一般教養部北校(尋常科廃止)
1929府立高等学校(東京府)[注 30]東京都立大学教養部[注 31]都立新制高等学校[注 32]
私立1922武蔵高等学校武蔵大学武蔵中学校・高等学校
1923甲南高等学校甲南大学甲南中学校・高等学校
1925成蹊高等学校成蹊大学成蹊中学校・高等学校
1926成城高等学校成城大学成城学園中学校高等学校
その他
学習院の中等科・高等科(現在の学習院中・高等科、学習院大学)
学習院(1933年)学習院は学習院学制に基づいて設立された官立の学校である。また、宮内省直轄という特殊な教育機関であった。当初は初等学科(6年)、中等学科(当初は6年のち5年)、補習科、高等学科、大学別科(1905年廃止)などが置かれていたが1919年に初等科、中等科、高等科と改称され、学校教育法が施行されるまでその体制が続いた。当初の学習院学制では補習科および高等学科は中等科の卒業生を対象とした2年制の教育機関という位置づけとなっていた。明治期から大正期にかけては帝国大学への進学も完全に保証されたものではなく、高等学科の卒業生は帝国大学側に定員割れが生じた場合や、院長の推薦によりのみ帝国大学への進学が許されるなど制度として一定していない。他の旧制高校高等科卒業生と全く同等の帝国大学への進学許可が制度的に保証されるようになったのは「学習院高等科卒業者大学入学ニ関スル件(大正10年文部省令第27号)」によるものであり、大正11年以降の卒業者から適用になった。
実現しなかった高校設立計画
同志社による7年制高等学校設立構想
同志社では大学令にもとづく大学を設立するとともに、従来の予科と中学を合わせて7年制高等学校に改組することも計画していた。しかし、私立高等学校は私立大学と同様に巨額の供託金を国庫に納付することを求められたため、7年制高校の設立は見送られ[19]、1920年に同志社大学と3年制の大学予科を設置するにとどまった。
帝塚山学院による計画
当時帝塚山学院高等女学校を運営していた財団法人帝塚山学院が、皇紀2600年を記念して1941年に財団法人帝塚山学園および帝塚山中学校を開校した。当初の計画ではこれを7年制高等学校に発展させる計画であったが、太平洋戦争とそれに続く学制改革の影響により、新制の中高一貫校に転換して現在に至る[20]。