旧制高等学校
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旧制高校の各校間には伝統の長短はあったものの、官公私立を問わず、いずれの学校も地域のエリート校として誇りの存在とされ、学校差は少なかった[2]
第二次高等学校令(高等学校令改正)

第一次世界大戦の好景気に沸き、同時に工業力の大発展を遂げた日本は、帝国大学の増設や学生定員の増加が社会的に求められることとなった。これに対応して高等学校の数も増やす必要が生じるに至り、1918年大正7年)、原敬内閣の下で「高等諸学校創設及拡張計画」が4450万の莫大な追加予算を伴って帝国議会に提出され、可決された。同計画では、大正8年から6年計画で、官立高等学校10校、官立高等工業学校6校、官立高等農林(農業)学校4校、官立高等商業学校7校、外国語学校1校、薬学専門学校1校の新設、帝国大学4学部の設置、医科大学5校の昇格、商科大学1校の昇格であり、その後、この計画はほぼ実現された。第二次高等学校令はその一環として1918年(大正7年)12月6日に公布され、翌1919年(大正8年)4月1日に施行された。高等学校の性質については「高等学校ハ高等普通教育ヲ授クル所トス」とされ、尋常科4年・高等科3年の7年制を基本とし、例外的に高等科だけの学校も認めるとした。

尋常科の入学資格は6年制の尋常小学校(国民学校初等科)卒業程度とし、中学校の課程に相当するので予科の設置が認められた。そのため、7年制高等学校(尋常科4年・高等科3年)は制度的に高等教育機関と位置づけられているものの、実質的には一つの学校で中等・高等教育機関を兼ねていた。また、明治時代に宮内省が華族の子弟の教育のために設立した学習院も、1921年以降、高等学校令中の官立高等学校に関する規定を適用[3] するとされ、制度的に高等学校と同等の学校として位置づけられた。

高等科の入学資格は、高等学校尋常科4年修了または中学校第4学年修了程度(改正前は当時5年制であった中学校卒業程度)とし、年限短縮を実現した。この修業年限短縮は以前から高等学校制度改革の根本にあったものである。このため、高等学校進学希望者は4年修了見込で高等学校を受験するのが一般的になり、合格する者も数多く出た。高等科卒業者のために修業年限1年の専攻科を置くことができるとし、その修了者には得業士の称号を与えることにした。また、同令の改正によって従来の9月入学は4月入学に改まったため、高等学校、専門学校の併願は不可能になった。
7年制高等学校の登場旧・成蹊高等学校校舎 / 現存する旧制高校時代の建造物の一つ。

第二次高等学校令では設置者についての規定も緩和され、高等学校は政府(文部省)でなくても設立できるようになった。主な例として、私立では東武鉄道根津財閥による武蔵高等学校、当代一流の教育家であった澤柳政太郎の肝煎りである成城高等学校三菱財閥の岩崎家が支援した成蹊高等学校阪神地区の財界人が集まって設立した甲南高等学校、公立では地元の素封家が県に莫大な寄付をして設立した富山県立富山高等学校がある。第二次高等学校令に基づくこれらの公私立高等学校はいずれも7年制高等学校であり、各校の設立構想には、当時の先端的な教育思想を実践することを設立の趣旨としたり、英国流のパブリックスクールをモデルとするなど、その多くは従来の高等学校と異なり、スマートな気質の学生を育てることを目指した[4]。武蔵高等学校のように、スポーツを禁じて落第者・退校者を多数出すことも辞せず、東京帝大への入学率で一高を抜いた学校すらあった[5]。これらの学校は、尋常科(4年制)と高等科(3年制)からなる7年制高等学校(学習院は尋常科に当たる中等科5年を併設した8年制)であり、一度、尋常科に入学すれば帝国大学への進学が保証された。かつ、甲南・成城・成蹊の3私立高校の場合、併設の小学校へ入学すれば、6、7歳にして将来は東京帝国大学をはじめとする帝国大学群への進学の道が開けることとなり、人気を集めた(学習院も初等教育機関(学習院初等科)を包含していた)。後に東大総長となる加藤一郎も成城小学校(現:成城学園初等学校)から成城高等学校に進んでいる。

八高出身のエッセイスト・三國一朗は東京帝大に入学した際、7年制高等学校出身の東大生を目撃し、「異様なタイプの東大生の一群」と評している[4]。7年制高等学校はスマートだが重量感に乏しい受験秀才と文芸青年を生み出したとの評価もある[5][注 3]

ただし、官公立高校では、東京高等学校尋常科は設立からわずか13年、授業開始から12年で廃止されることになり、その後も浪速高等学校尋常科、公立から官立に移管した富山高等学校、台北高等学校の各尋常科も相次いで廃止され(東高尋常科は戦後の一時期、募集を再開)、学制改革期まで尋常科募集を続けたのは、東京府が設立した府立高等学校のみであった。

なお、一高をはじめとする官立高校の多くは当初の形態通り、3年制の高等科だけを置いた。
終焉「学制改革#旧制高校等から新制大学へ」も参照

第二次世界大戦終結後、日本を占領統治した連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)が主導した戦後改革は高等学校のあり方にも及んだ。終戦後、文部省は女子教育刷新の一環として、男子の高等学校に対置する形で女子を対象とする教育機関として「女子高等学校」を新設する計画を立てた[7]。同計画は実施には至らず、高等学校令1条を改正して既存の高等学校が共学化する法的根拠を設けるに留まったものの[7]、これを受けて女子の入学を許可する高校が現れた。女子生徒は概してお客さん扱いで大事にされ、卒業後は、帝大や新制大学に進学し、教職・研究職に就いた者が多かった[8][注 4]

また、医学・歯学教育を大学課程に一元化する改革も同時に進められ、旧制医学専門学校および旧制歯科医学専門学校は旧制大学に昇格しうるかどうか審査され、大学昇格が適当なA級校と不適当なB級校に判別された。その結果、戦災による被害も相まって医学専門学校は6校が、歯科医学専門学校は3校が大学昇格の基準を満たさないB級校とされて廃校の対象となり、それらの学校に在籍していた生徒は、1学年留年の上でA級校に転校するか、同じく留年の上で旧制高等学校あるいは大学予科に転校することが求められた。そのため、B級校の多くは1947年に旧制高等学校に改組して引き続き生徒の教育を行うこととなった[注 5]。これらの高等学校は医大の予科的な位置づけであり、いずれも高等科の理科のみが設置されたもので、戦後特設高等学校(ないし単に特設高等学校)と呼ばれる(ただし、官立徳島高等学校は異なる経緯で旧制高校となった)。

そのような旧制高校にも終焉のときが迫りつつあった。廃止に積極的に動いたのは教育刷新委員会副委員長の南原繁らである。南原自身も一高出身であったが、旧制高校の3年間は遊んでばかりで、学習内容は旧制中学のものを手直しした程度のものだったと、それほど旧制高校の教育に執着を持っていなかったことを後に証言している。南原は、ジェントルマンであれと強調した、一高時代の校長・新渡戸稲造への傾倒を繰り返し述べていたことから、バンカラの気風に違和感を覚えていたことが窺える[10]

戦後の学制改革によって、旧制高等学校の多くは新制大学教養部文理学部の母体となり、原則として旧制大学や他の高等教育機関と統合の上で1950年に廃止された[注 6]

旧制高校在学中に学制改革によって新制大学に入学した人物には作家の野坂昭如(新潟高等学校から新潟大学、のち早稲田大学)、高橋和巳松江高等学校から京都大学)、開高健大阪高等学校から大阪市立大学)、小松左京(第三高等学校から京大)、堤清二成城高等学校から東大)、井原高忠(学習院高等科から慶大)、旧制大学を前身としない大学学部卒ではじめて事務次官になった小長啓一(第六高等学校から岡山大学)らがいる。また、映画監督の山田洋次は山口高等学校在学中に学制改革に遭遇し、新制東京都立小山台高等学校から東大に進んだ。

学制改革実施前、天野貞祐を中心に「ジュニアカレッジ(改革後の短期大学に相当)」として旧制高等学校存続を模索する動きもあったが、幻に終わった。

旧制高等学校を懐かしむ卒業生は戦後においても日本寮歌祭を開いたり、「日本の教育改革を進める会」を結成したりして旧制高等学校の長所を訴えた。しかし、あくまで国立の高等教育機関としての復活を希求していたせいか、私立でエリートに対する一般教養教育の短期大学高等専門学校を設立する動きはなかった。ただし、公立ではこういう学校が存在した。1950年に設立され、1955年に廃止された和歌山県立理科短期大学がそれである。


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