日露戦争
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後者は1910年新たに4億5,000万フラン貸したが、1951年9月末で4億3,432万8,700フランが未償還であった[28]

結局日本は、1904年から1907年にかけ合計6次の外債発行により、借り換え調達を含め総額1億3,000万ポンド(約13億円弱)の外貨公債を発行した[28]。このうち最初の4回、8,200万ポンドの起債が実質的な戦費調達資金であり、あとの2回は好条件への切り替え発行であった。しかし、切り替えのために鉄道国有法を制定する必要があった。なお日露戦争開戦前年の1903年(明治36年)の一般会計歳入は2.6億円であり、いかに巨額の資金調達であったかが分かる。この公債は、第一次世界大戦のあとまで残ることとなった[29]

日本政府の一般・特別会計によると日露戦争の戦費総額は18億2,629万円とされる[30][注釈 6]
戦闘序列
日本軍

大日本帝国 大日本帝国軍の戦闘序列[31]

大日本帝国軍 - 大山巌元帥総司令官

山縣有朋大将大将参謀総長

第1軍 - 黒木為大将

近衛師団 - 長谷川好道中将

第1近衛旅団

第2近衛旅団


第2師団 - 西寛二郎中将

第3旅団

第15旅団


第12師団 - 井上光中将

第12旅団

第23旅団


近衛後備旅団(梅沢旅団) - 梅沢道治少将


第2軍 - 奥保鞏大将

第3師団 - 大島義昌中将

第15旅団

第72旅団


第4師団 - 小川又次中将[32]

第17旅団

第19旅団


第6師団 - 大久保春野中将

第11旅団

第24旅団


後備第1旅団

騎兵第1旅団 - 秋山好古少将

第1野戦砲兵旅団


第3軍 - 乃木希典大将[33]

第1師団 - 松村務本中将[34]飯田俊助中将[35]

第7師団 - 大迫尚敏中将

第9師団 - 大島久直中将

第11師団 - 土屋光春中将


第4軍 - 野津道貫大将

第5師団 - 上田有沢中将[36]

第9旅団

第21旅団


第10師団 - 川村景明中将

第8旅団

第20旅団


第18後備旅団



ロシア軍

ロシア帝国
モンテネグロ公国
経過日露戦争の経過朝鮮半島を進軍中の日本軍歩兵(1904年撮影)
開戦時の両軍の基本戦略
日本側
戦闘領域の北限はハルビンまでに限局しシベリアまでの追撃は行なわず、戦争期間は1年程度と想定していた[37]海軍第一艦隊第二艦隊をもって旅順にいるロシア太平洋艦隊を殲滅ないし封鎖し、第三艦隊をもって対馬海峡を抑え制海権を確保する。その後、陸軍第一軍をもって朝鮮半島へ上陸、在朝鮮のロシア軍を駆逐し、第二軍をもって遼東半島へ橋頭堡を立て旅順を孤立させる。さらにこれらに第三軍第四軍を加えた四個軍をもって、満洲平野にてロシア軍主力を早めに殲滅する。のちに沿海州へ進撃し、ウラジオストクの攻略まで想定。海軍によるロシア太平洋艦隊の殲滅はヨーロッパより回航が予想されるバルチック艦隊の到着までに行う。1904年2月11日大本営が設置された。このときは1903年の大本営条例の全部改正により軍事参議院が設置され、戦時においても初めて軍令機関が陸海軍並列対等となったことから、陸軍の参謀総長、海軍の海軍軍令部長の両名ともに幕僚長とされた。
ロシア側
陸軍は日本側の上陸を朝鮮半島南部と想定。鴨緑江付近に軍を集結させ、北上する日本軍を迎撃させる。迎撃戦で日本軍の前進を許した場合は、日本軍を引きつけながら順次ハルビンまで後退し、補給線の延びきった日本軍を殲滅するという戦略に変わる。海軍は太平洋艦隊は無理に決戦をせず、ヨーロッパ方面からの増援を待つ。ただしロシア側ではこの時期の開戦を想定しておらず、旅順へ回航中だった戦艦オスリャービャが間に合わなかったなど、準備は万全と言えるものではなかった。
開戦児玉源太郎満洲で撮影されたロシア軍の第23砲兵旅団の写真仁川沖海戦で炎上するロシア艦(右がヴァリャーグ)鴨緑江に架けた仮設橋を渡る第一軍部隊遼陽会戦でロシア軍の使用した観測気球の気嚢

大日本帝国海軍1904年2月6日午後2時に佐世保港を出航し、3手に分かれてそれぞれ仁川、旅順、大連に向かった。釜山沖ではロシア船2隻を拿捕したが[38]、この戦闘で日本軍の重軽傷者は54名・死者4名以上となった[39]

2月8日、大日本帝国陸軍は先遣部隊の第12師団木越旅団が日本海軍の第2艦隊瓜生戦隊の護衛を受けながら朝鮮の仁川に上陸した。その入港時に瓜生戦隊の水雷艇と同地に派遣されていたロシアの砲艦コレーエツが小競り合いを起したのが最初の直接戦闘であった。同日夜には旅順港にいたロシア旅順艦隊に対する日本海軍駆逐艦奇襲攻撃旅順口攻撃)も行われた。この攻撃ではロシアの艦艇数隻に損傷を与えたが修復可能で大きな戦果とは言えなかった。瓜生戦隊は翌2月9日、仁川港外にて巡洋艦ヴァリャーグとコレーエツを攻撃し自沈に追い込んだ(仁川沖海戦)。ロシア軍は104名が死傷した[39]

日本政府は2月10日にロシア政府への宣戦布告を行い、2月11日に大本営を設置、2月23日には大韓帝国との間で日本軍の補給線の確保を目的とした日韓議定書を締結、3月15日に元老松方正義井上馨らが帝国軍人援護会を結成するなど準備を整えていった。


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