日露戦争
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仮に日本がモンテネグロの宣戦布告を無視しなかった場合、かなり厄介な問題を引き起こすこととなった[注釈 10]
その他各国

当時、欧米列強の支配下にあり、第二次世界大戦後に独立した国々の指導者たちの回顧録に「有色人種の小国が白人の大国に勝ったという前例のない事実が、アジアやアフリカの植民地になっていた地域の独立の気概に弾みをつけ、人種差別下にあった人々を勇気づけた」と記される[75]など、欧米列強による植民地時代における感慨の記録が数多く見受けられる[注釈 11]

また、第一次エチオピア戦争で、エチオピア帝国がイタリア王国に勝利した先例があるが、これは英仏の全面的な軍事的支援によるものであった。そのため、日露戦争における日本の勝利は、有色人種国家独自の軍隊による、白色人種国家に対する近代初の勝利と言える(ただし1804年に独立したハイチナポレオン率いるフランス軍を撃退して世界初の黒人共和国となっており、有色人種が白人に勝利した一例である)。また、絶対君主制ツァーリズム)を続ける国に対する立憲君主国の勝利という側面もあった。いずれにしても日露戦争における日本の勝利が世界に及ぼした影響は大きく、来日していたドイツ帝国の医者エルヴィン・フォン・ベルツは、自分の日記の中で日露戦争の結果について「私がこの日記を書いている間にも、世界歴史の中の重要な1ページが決定されている」と書いた。

実際に、日露戦争の影響を受けて、ロシアの植民地であった地域やヨーロッパ諸国の植民地がそのほとんどを占めていたアジアで特に独立・革命運動が高まり、清朝における孫文辛亥革命オスマン帝国における青年トルコ革命カージャール朝における立憲革命仏領インドシナにおけるファン・ボイ・チャウ東遊運動英領インド帝国におけるインド国民会議カルカッタ大会オランダ領東インドにおけるブディ・ウトモなどに影響を与えている。日露戦争研究で知られるイスラエルの歴史学者ロテム・コウナー(en:Rotem Kowner)は、「白人は打ち負かされうる存在であると思わせた日露戦争の結果はアジアにおけるすべての国民解放運動に影響を与えた」と述べている[76]

インドネルーは、「小さな日本が大きなロシアに勝ったことは、インドに深い印象を刻み付けた。日本が最も強大なヨーロッパの一国に対して勝つことができたならば、どうしてそれがインドにできないといえようか」「だから日本の勝利はアジアにとって偉大な救いであった。インドでは我々が長くとらわれていた劣等感を取り除いてくれた」「日本が大国ロシアを破った時、インド全国民は非常に刺激を受け、大英帝国をインドから放逐すべきだとして独立運動が全インドに広がった」「インド人はイギリス人に劣等感をもっていた。ヨーロッパ人は、アジアは遅れた所だから自分たちの支配を受けるのだと言っていたが、日本の勝利は、アジアの人々の心を救った」と述べている[77]チャンドラ・ボースは、来日の折「日本の皆さん、今から四十年前に一東洋民族である日本が、強大国のロシアと戦い大敗させました。このニュースがインドへ伝わると興奮の波が全土を覆い、旅順攻略や日本海海戦の話題で持ちきりとなり、子供達は東郷元帥や乃木大将を尊敬しました」というメッセージを日本国民に送っている[78]

ビルマバー・モウは、「アジアの目覚めの発端、またはその発端の出発点であった」と回想しており、ウー・オッタマ(英語版)は、『日本』なる著書を刊行し、「日本の興隆と戦勝の原因は明治天皇を中心にして青年が団結して起ったからだ。われわれも仏陀の教えを中心に青年が団結、決起すれば、必ず独立を勝ち取ることができる」「長年のイギリスの桎梏から逃れるには、日本に頼る以外にない」と述べている[79]

フィリピンでは、アメリカからの独立を目指す革命軍総司令官リカルテから一般庶民に至るまで、日露戦争を独立の好機と捉え、日本海海戦での日本の勝報に接するや、民衆はそれを祝福する挨拶を交し合い、マニラでは旗行列まで行われた[79]

アゼルバイジャン思想家・ターレボフは、『人生の諸問題』において、「日本の皇帝はアジアの王たちによき手本を提供した。もし王たちが狩猟黄金をちりばめた王宮での安眠の代わりに、その時間を少しでも王国内の諸問題の解決と、国民の福祉とを考えるために費やすならば、彼らはきっと天皇の方策を模倣することになる」と記して、大日本帝国憲法も掲載した。また、日本との同盟や日本軍将校の招聘を求める声も上がっていた[80]

イラン詩人、ホセイン・アリー・タージェル・シーラーズィーは、明治天皇を称える『ミカド・ナーメ(天皇の書)』を出版し、叙事詩の形で明治天皇の即位から明治維新、近代改革、日清戦争三国干渉、そして日露戦争までを語っており[80]、立憲体制下の日本が世界に新しい光を投げかけ、長い無知の暗闇を駆逐したと日本を賛美した[81]。東方からまた何という太陽が昇ってくるのだろう。
眠っていた人間は誰もがその場から跳ね起きる。
文明の夜明けが日本から拡がったとき、
この昇る太陽で全世界が明るく照らし出された。 ? ホセイン・アリー・タージェル・シーラーズィー、ミカド・ナーメ

イランでは、ロシアなどの進出を受け、弱体ぶりを露呈したガージャール朝における革新的な運動が台頭するが、こうした運動が台頭したのは、日本がロシアに勝利を収めたことが関連しており、日本がロシアに勝利を収めたという事実は、多くのイラン人に変革への欲求をもたらした。日本の勝利の原因についてイラン人が考えたことは、立憲国家(日本)の非立憲国家(ロシア)に対する勝利であり、憲法こそが日本の勝利の秘訣という結論に至り、憲法が必要だと考えるイラン人たちは、「カーヌーン(憲法)、カーヌーン」と叫んで憲法を要求し、イラン立憲革命の運動へと広がった[82]

ペルシアの雑誌『ハブラル・マタン』(1912年8月)は、明治天皇の崩御を受けて、「日本先帝陛下はロシアを撃破した後、アジア全般に立憲思想を普及させた。日本の立憲政体に倣った最初の帝国はペルシャであり、それにトルコ、最後に清国がつづいた。そもそもこの三帝国は終始ロシアの圧迫、威嚇を受け、専制君主国であるロシアに配慮して立憲は不可能だった。それゆえに日本先帝陛下は全アジアに対する解放の神であり、アジアの真の仁恵者であると明言することができる」という論説を掲載した[80]

トルコでは、日露戦争中、上は皇帝から下は庶民まで、日本に声援を送り、赤十字社新聞社を通じ、日本に寄付金を送るものも多く[80]ハリデ・エディプ・アドゥヴァルは、東郷大将にちなみ、次男をハサン・ヒクメトッラー・トーゴーと名付けるなど、トルコでは日露戦争で活躍した東郷将軍や乃木将軍の名前が、人名や通りの名前に付けられており、現在でもイスタンブールには「トーゴー通り」「ノギ通り」がある[81]

エジプト政治家・ムスタファー・カーミル(英語版)は、「日本人こそ、ヨーロッパに身のほどをわきまえさせてやった唯一の東洋人である」といい[83]、『昇る太陽』という日本紹介書を著した。「昇る太陽」という表現にはエジプト独立への期待や希望が込められており、イギリスからのエジプトの完全独立を達成するために日本から教訓を得ようという考えのもと、明治の日本の発展の秘談が日本人の愛国心と、それを支える教育政治経済などの諸制度にあると主張した[82]。また、詩人のハーフィズ・イブラヒム(英語版)は「銃を持って戦う能わずも、砲火飛び散る戦いに身を挺し、傷病兵に尽くすはわが務め」と、日本の従軍看護婦を称える「日本の乙女」という詩を作った[83]

なお、日露戦争での日本の勝利は、当時ロシアの支配下にあったフィンランドをも喜ばせ、東郷平八郎の名が知れ渡り「東郷ビール」なるビールが製造されたとの逸話があるが、これは誇張ないし誤りである。


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