日露戦争
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第5師団 - 上田有沢中将[36]

第9旅団

第21旅団


第10師団 - 川村景明中将

第8旅団

第20旅団


第18後備旅団



ロシア軍

ロシア帝国
モンテネグロ公国
経過日露戦争の経過朝鮮半島を進軍中の日本軍歩兵(1904年撮影)
開戦時の両軍の基本戦略
日本側
戦闘領域の北限はハルビンまでに限局しシベリアまでの追撃は行なわず、戦争期間は1年程度と想定していた[37]海軍第一艦隊第二艦隊をもって旅順にいるロシア太平洋艦隊を殲滅ないし封鎖し、第三艦隊をもって対馬海峡を抑え制海権を確保する。その後、陸軍第一軍をもって朝鮮半島へ上陸、在朝鮮のロシア軍を駆逐し、第二軍をもって遼東半島へ橋頭堡を立て旅順を孤立させる。さらにこれらに第三軍第四軍を加えた四個軍をもって、満洲平野にてロシア軍主力を早めに殲滅する。のちに沿海州へ進撃し、ウラジオストクの攻略まで想定。海軍によるロシア太平洋艦隊の殲滅はヨーロッパより回航が予想されるバルチック艦隊の到着までに行う。1904年2月11日大本営が設置された。このときは1903年の大本営条例の全部改正により軍事参議院が設置され、戦時においても初めて軍令機関が陸海軍並列対等となったことから、陸軍の参謀総長、海軍の海軍軍令部長の両名ともに幕僚長とされた。
ロシア側
陸軍は日本側の上陸を朝鮮半島南部と想定。鴨緑江付近に軍を集結させ、北上する日本軍を迎撃させる。迎撃戦で日本軍の前進を許した場合は、日本軍を引きつけながら順次ハルビンまで後退し、補給線の延びきった日本軍を殲滅するという戦略に変わる。海軍は太平洋艦隊は無理に決戦をせず、ヨーロッパ方面からの増援を待つ。ただしロシア側ではこの時期の開戦を想定しておらず、旅順へ回航中だった戦艦オスリャービャが間に合わなかったなど、準備は万全と言えるものではなかった。
開戦児玉源太郎満洲で撮影されたロシア軍の第23砲兵旅団の写真仁川沖海戦で炎上するロシア艦(右がヴァリャーグ)鴨緑江に架けた仮設橋を渡る第一軍部隊遼陽会戦でロシア軍の使用した観測気球の気嚢

大日本帝国海軍1904年2月6日午後2時に佐世保港を出航し、3手に分かれてそれぞれ仁川、旅順、大連に向かった。釜山沖ではロシア船2隻を拿捕したが[38]、この戦闘で日本軍の重軽傷者は54名・死者4名以上となった[39]

2月8日、大日本帝国陸軍は先遣部隊の第12師団木越旅団が日本海軍の第2艦隊瓜生戦隊の護衛を受けながら朝鮮の仁川に上陸した。その入港時に瓜生戦隊の水雷艇と同地に派遣されていたロシアの砲艦コレーエツが小競り合いを起したのが最初の直接戦闘であった。同日夜には旅順港にいたロシア旅順艦隊に対する日本海軍駆逐艦奇襲攻撃旅順口攻撃)も行われた。この攻撃ではロシアの艦艇数隻に損傷を与えたが修復可能で大きな戦果とは言えなかった。瓜生戦隊は翌2月9日、仁川港外にて巡洋艦ヴァリャーグとコレーエツを攻撃し自沈に追い込んだ(仁川沖海戦)。ロシア軍は104名が死傷した[39]

日本政府は2月10日にロシア政府への宣戦布告を行い、2月11日に大本営を設置、2月23日には大韓帝国との間で日本軍の補給線の確保を目的とした日韓議定書を締結、3月15日に元老松方正義井上馨らが帝国軍人援護会を結成するなど準備を整えていった。
負傷兵の搬送

フランス軍に救出されたヴァリャーグの乗員24名を含め[39]、負傷兵は仁川に臨時に設けられた仁川赤十字病院に送られた(ここには京城の漢城病院、仁川共立病院の医師や従軍看護婦が派遣された)。仁川の日本兵84名とロシア兵22名は3月3日から4日間かけて博愛丸に収容され、3月10日に門司港に到着し、さらに伊予松山地域の赤十字臨時病院に移された[40][41]
ロシア側の抗議

外交交渉を一方的に打ち切り、宣戦布告前の攻撃に及んだことに対しロシア政府は日本政府へ抗議した[42]。当時は「攻撃開始の前に宣戦布告しなければならない」という国際法上の規定はなかったが、「ハーグ陸戦条約の『武力行使の前に第三国による調停を依頼する努力』規定[43]に違反した」と主張した。

日本側は戦時の開始を2月6日とすることを決め[44]、これが認められたために釜山沖での拿捕も承認された。

3月6日上村彦之丞海軍中将が率いる装甲巡洋艦「出雲」、「八雲」、「吾妻」、「磐手」、「浅間」、防護巡洋艦「笠置」、「吉野」がウスリー湾方面からウラジオストク港に接近して薄氷の外から造船場、砲台、市街地に向けて約50分間砲撃した後引き上げた。ロシア旅順艦隊は増援を頼みとし、日本の連合艦隊との正面決戦を避けて旅順港に待機した。

連合艦隊は2月から5月にかけて、旅順港の出入り口に古い船舶を沈めて封鎖しようとしたが、失敗に終わった(旅順港閉塞作戦)。4月13日、連合艦隊の敷設した機雷が旅順艦隊の旗艦である戦艦ペトロパヴロフスクを撃沈、旅順艦隊司令長官マカロフ中将を戦死させるという戦果を上げたが(後任はヴィリゲリム・ヴィトゲフト少将)、5月15日には逆に日本海軍の戦艦「八島」と「初瀬」がロシアの機雷によって撃沈される。

一方で、ウラジオストクに配備されていたロシアのウラジオストク巡洋艦隊は、積極的に出撃して通商破壊戦を展開する。ウラジオストク艦隊は4月25日に日本軍の輸送艦金州丸を撃沈している。このとき捕虜となった日本海軍の少佐は、戦後免官となった[45]。この時は上村彦之丞中将率いる第二艦隊が再びウラジオストク港を攻撃しようとしていた時であり、以降第三艦隊に代わり第二艦隊が一部を除いて対馬海峡警備に当たった。


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