日露戦争
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他方、2月10日の開戦の詔勅に続くはずだったとみられる詔勅草案もあり、ここでは信教の自由を強調し開戦の不幸を強調している[13]

朕先に、憲法の条章に由り、信教の自由を保明せり。汝有衆、各々自らその信依する所を選み、之に案ずるを得ると共に、また、よく他の言依する所を尊重し、互いに相犯すなきを要す。

此の次、不幸にして露国と釁端を開けり。朕が平素の志に違い、戦を宣するに至りたるの事由は、朕既に業に之を示せり。事少しも宗教と相関せず、朕が信教に対する一視同仁は、更に平時に薄ることあるなし。汝有衆、よく朕が意を体し、信仰帰依の如何を問わず、互いに相親み相愛し協力同心以て、朕が意を空うするなきを期せよ。

ロシア帝国の動機

ロシア帝国は満洲および関東州租借権・鉄道敷設権などの利権の確保、満洲還付条約不履行の維持(満洲に軍を駐留)、朝鮮半島での利権拡大における半島支配と日本による抵抗の排除、直接的には日本側からの攻撃宣戦布告を戦争理由とした。

戦争の性格

日露戦争は20世紀初の近代総力戦の要素を含んでおり、また2国間のみならず帝国主義(宗主国)各国の外交関係が関与したグローバルな規模をもっていた。
関与国・勢力

日本側ロシア側
戦争参加国・勢力

大日本帝国

ロシア帝国
モンテネグロ公国(ただし宣戦布告はしたが、戦闘には参加せず)
支持勢力

大韓帝国(高宗をはじめとする支配者階級(王族と両班)とロシア利権を持つ親露派)
同盟国・支援国

イギリス帝国日英同盟
大韓帝国日韓議定書
大清帝国
(厳正中立を宣言していたが、ロシアの事実上の植民地となっている東三省を回復すべく暗に協力したとの説あり[14][15]袁世凱は配下の北洋軍閥を用いて諜報や馬賊隊編成などで日本に協力、諜報将校を日本軍の特別任務班に派遣)

フランス露仏同盟
大清帝国露清密約、開戦後同年5月18日に破棄。張作霖など一部の馬賊は協力)

ドイツ帝国皇帝ヴィルヘルム2世黄禍論者であったことからロシア寄りであったが、ロシアがドイツと対立を続けているフランスの同盟国ということもあり、国家としては具体的な行動は行っていない。後に皇帝同士で結んだ「ビヨルケの密約」は、戦争の勝敗が決定的になった後に結ばれている。

観戦武官第一軍司令部と観戦武官

日露両陣営には欧米と南米諸国から数多くの観戦武官が派遣されていた。日本側には13か国から合計70名以上が来訪しており、その国籍はイギリスアメリカ合衆国ドイツオーストリアスペインイタリアスイススウェーデンブラジルチリアルゼンチンオスマン=トルコであった。同盟国であるイギリスからが最多で、エイルマー・ホールデン(英語版)をはじめ33名を数えた。アメリカからはダグラス・マッカーサーの父親であるアーサー・マッカーサー・Jrが赴任していた[16]

観戦武官のレポートはそれぞれの国で物議を醸した。特に機関銃が戦場を支配していたことと騎兵が無用の長物と化していたことは、いまだにナポレオン戦争時代の幻想を引きずっていたヨーロッパ軍人の間では受け入れがたく[要出典]、東洋特有の事情として一蹴された。しかしやがて彼らは第一次世界大戦でその現実に直面することになった。
背景
朝鮮半島を巡る日露対立

大韓帝国は清の冊封体制を日清戦争後日本によって解かれたが、満洲を勢力下に置いたロシアが朝鮮半島に持つ利権を手がかりに南下政策を取りつつあった。ロシア高宗を通じ、売り払われた鍾城慶源鉱山採掘権や朝鮮北部の森林伐採権、関税権などの財政基盤を取得し朝鮮半島での影響力を増大し、着実に勢力拡大をしていった。ロシアの南下政策に危機感(1861年文久元年)にロシア軍艦対馬占領事件があったため)を持っていた日本がこれらを大韓帝国の代わりに買い戻し、回復させた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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