日進町_(さいたま市)
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■日進町
町丁
日進駅(2011年2月)
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.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度55分53.54秒 東経139度36分22.20秒 / 北緯35.9315389度 東経139.6061667度 / 35.9315389; 139.6061667
日本
都道府県 埼玉県
市町村 さいたま市
北区
地域大宮地区
人口(2017年(平成29年)9月1日時点)[1]
 ? 合計31,902人
等時帯UTC+9 (日本標準時)
郵便番号331-0823[2]
市外局番048[3]
ナンバープレート大宮
※座標は日進駅の位置

■上加
大字
■上加上加の位置
北緯35度55分53.35秒 東経139度36分20.50秒 / 北緯35.9314861度 東経139.6056944度 / 35.9314861; 139.6056944
日本
都道府県 埼玉県
市町村 さいたま市
北区
地域大宮地区
等時帯UTC+9 (日本標準時)
市外局番048[3]
ナンバープレート大宮

■西谷
大字
日本
都道府県 埼玉県
市町村 さいたま市
北区
地域大宮地区
等時帯UTC+9 (日本標準時)
市外局番048[3]
ナンバープレート大宮

日進町(にっしんちょう)は、埼玉県さいたま市北区町名。現行行政地名は日進町一丁目から日進町三丁目。住居表示未実施地区[4]郵便番号は331-0823[2]。本項では、日進町の前身で現在も残存する[5]大字上加(かみか)および大字西谷(にしや)と、それらの前身である加村(かむら)および西谷村(にしやむら)についても述べる。
地理

さいたま市北区中西部に位置する。町域の中央を南北に長く大宮台地があり、東部に向かって緩やかに傾斜しながら町境の切敷川に至る。西部は町境をなす鴨川沿いの沖積平野や、開析谷が入り組んだ起伏のある地形となっている。北区奈良町宮原町大成町櫛引町大宮区西区に跨る三橋、西区宮前町内野本郷上尾市戸崎と隣接する。地内は住宅地で、ほぼ全域が市街化区域であるが、鴨川流域沿いには市街化調整区域が存在する[注釈 1]。北部の新大宮バイパスや都市計画道路宮原指扇線周辺には生産緑地地区としての畑地がまだ残る[注釈 1]
地価

住宅地の地価は、2015年平成27年)1月1日公示地価によれば、日進町二丁目1784番2の地点で17万3000円/m2となっている[6]
歴史

日進町があった一帯は古くは南北朝期より見出せる足立郡に属する加村で、賀村とも書かれた。この加村は中世末期か近世の初期頃より上加村と下加村に分村された[7]。概ね加村の区域の北部が上加村、南部が下加村であった。上加村は南側で、下加村は東側で櫛引村と隣接していた。また、上加村の北側には後年日進村の一部となる西谷村が隣接していた[8]

その後、日進町の前身の村々は、日進町の成立まで以下の変遷をたどった。
上加村

江戸期武蔵国足立郡吉野領に属する上加村であった。さらに古くは水判土荘に属していたと云われている[9]。上加村は上賀村とも書かれた[10]。村高は正保年間の『武蔵田園簿』では495(田87石余、畑371石余、高不足は36石余)、『元禄郷帳』では554石余、『天保郷帳』では555石余であった[9]助郷中山道大宮宿に出役していた[9]化政期戸数は50軒で、村の規模は東西20、南北18町であった[9][10]。甘藷と紅花が村の特産物で、甘藷は鴻巣宿、紅花は桶川宿の問屋に出荷していた[9]

初めは幕府領1608年慶長13年)より知行旗本内藤氏[9]。なお、検地1651年慶安4年)に実施。

1666年寛文6年)より再び幕府領となる[9]

1828年文政11年)より大宮宿寄場55か村組合に所属していた[9]

幕末の時点では足立郡に属し、明治初年の『旧高旧領取調帳』の記載によると、幕府領(代官・大竹左馬太郎支配所)、および満福寺領であった[注釈 2]

1868年慶応4年)6月19日 - 幕府領が武蔵知県事・山田政則(忍藩士)の管轄となる。

1869年明治2年)

1月13日 - 武蔵知県事・宮原忠英の管轄区域に大宮県を設置、同県の管轄となる。県庁は東京府馬喰町に置かれる。

9月29日 - 県庁が浦和に置かれ浦和県に改称。


1871年(明治4年)11月13日 - 第1次府県統合により埼玉県の管轄となる。

1873年(明治6年)4月6日 - 満福寺を仮用して上加学校(現・さいたま市立日進小学校)が開設される。

1879年(明治12年)3月17日 - 郡区町村編制法により成立した北足立郡に属す。郡役所は浦和宿に設置。

1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行に伴い、大成村・櫛引村・上加村・下加村・西谷村・上内野村・西内野村が合併し、日進村が発足[9]。日進村の大字上加となる。

1940年昭和15年)

7月22日 国鉄(現・JR川越線が開業し、地内に日進駅が開設される。

11月3日 - 大宮町三橋村・日進村・宮原村大砂土村が合併し、大宮市が発足[11]。同市の大字となる。


1958年(昭和33年)7月10日 - 町名地番変更により、大字上加および大字大成の各一部から日進町二丁目が成立[12][9][13]
(以降は下記の日進町の成立節を参照)
下加村

江戸期は武蔵国足立郡吉野領に属する下加村であった。さらに古くは大谷領に属していたと云われている[14]。下加村は下賀村とも書かれた。村高は正保年間の『武蔵田園簿』では327石余(田125石余、畑202石余)、『元禄郷帳』では316石余、『天保郷帳』では326石余であった[14]。助郷は中山道大宮宿に出役していたが、正徳安永には日光御成街道大門宿にも代出役していた[14]。化政期の戸数は33軒で、村の規模は東西3町、南北5町余であった[14][15]


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