日蓮
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滅後の延文3年(1358年)、日蓮宗の僧である大覚が雨乞い祈祷によって雨を降らした功績により、後光厳天皇から日蓮大菩薩の位を授けられた。大正11年(1922年)には日蓮主義者の本多日生らの嘆願により、大正天皇から立正大師の諡号を追贈された。

日蓮上人、日蓮聖人、日蓮大聖人等と敬称されるが、本項では敬称なしで表記する。
生涯
誕生

日蓮は、承久4年(1222年)2月16日、安房国長狭郡東条郷片海(現在の千葉県鴨川市)の漁村で誕生した[4]。片海の場所については諸説あるが、内浦湾東岸の地とされている[5]

両親について、父は貫名重忠、母は梅菊とする伝承がある。日蓮は自身の出自について「日蓮は、安房国・東条・片海の石中(いそなか)の賤民が子なり」[6]、「海辺の旋陀羅が子なり」[7]、「東条郷・片海の海人が子なり」[8]と述べているので、漁業を生業とする家庭の出身と考えられる。ただし、両親は荘園を所有する領家の夫人から保護を受けており、日蓮自身、東条郷にある清澄寺で初等教育を受けているので、両親は最下層の漁民ではなく、漁民をまとめる荘官級の立場にあったと見られる[9]
修学

日蓮は12歳の時、初等教育を受けるため、安房国の当時は天台宗寺院であった清澄寺に登った[注釈 5]天台宗以来、妙法蓮華経を最も優れた経典とする五時八教の教相判釈を受け継いでいた。師匠となったのは道善房であり、先輩である浄顕房・義浄房から学問の手ほどきを受けた[注釈 6]。幼名は善日麿[10]、あるいは薬王麿[11]と伝えられる。

清澄寺に登る前から学問を志していた日蓮は、清澄寺の本尊である虚空蔵菩薩に「日本第一の智者となし給え」という「願」を立てた[注釈 7]。少年時代の日蓮は、自身の誕生の前年に起きた承久の乱真言密教の祈?を用いた朝廷方が鎌倉幕府方に敗れたのはなぜか、との問題意識をもっていた[12]。また、仏教の内部になぜ多くの宗派が分立し、争っているのか、との疑問もあった[13]。清澄寺にはこれらの疑問に答えを示せる学匠がいなかったので、日蓮は既存の宗派の教義に盲従せず[注釈 8]、自身で経典に取り組み、経典を基準にして主体的な思索を続けた。

伝承によれば、日蓮は16歳の時、道善房を師匠として得度・出家し、是聖房蓮長と名乗った(日蓮が17歳の時に書写した「授決円多羅義集唐決上」に是聖房の直筆署名がある。
宗教体験と遊学

得度した後、虚空蔵菩薩に真剣に祈り、主体的な思索を重ねた結果、日蓮はある日、各宗派や一切経の勝劣を知るという重要な宗教体験を得た[注釈 9]

次に日蓮は、この宗教体験を経典に照らして確認し、各宗派の教義を検証するため、比叡山延暦寺園城寺高野山などに遊学することになった[注釈 10]

遊学の中心は延暦寺で、滞在したのは比叡山横川の寂光院と伝えられる[14]。比叡山での研鑽の結果、日蓮は「阿闍梨」の称号を得ている[15]。比叡山で日蓮は、妙法蓮華経を中心とする文献的な学問と、いわゆる天台本覚思想を学んでいる[16]。恵心流の碩学・俊範を比叡山における日蓮の師とする説もあるが[17]、日蓮は俊範から学んだとは述べておらず、実際には俊範の講義に参加していた程度と考えられている[18]

遊学中に日蓮が書写した文献には「授決円多羅義集唐決上」[19]と「五輪九字明秘密釈」[20]がある。著作としては「戒体即身成仏義」など数編が伝えられるが、いずれも真筆はなく、偽書の疑いがある。十数年に及んだ遊学の結果、日蓮は、一切経の中で妙法蓮華経が最勝の経典であること、天台宗を除く諸宗が妙法蓮華経の最勝を否認する謗法(正法誹謗)を犯していること、時代が既に末法に入っていることを確認し、32歳で南無妙法蓮華経の弘通を開始することになった。
立教開宗

遊学を終えた日蓮は建長4年(1252年)秋、あるいは翌年春、清澄寺に戻った。建長5年4月28日、師匠・道善房の持仏堂で遊学の成果を清澄寺の僧侶たちに示す場が設けられた。その席上、日蓮は念仏と禅宗が妙法蓮華経を誹謗する謗法を犯していると主張し、南無妙法蓮華経の題目を唱える唱題行を説いた[注釈 11]。南無妙法蓮華経の言葉は日蓮の以前から存在し、南無妙法蓮華経と唱えることは天台宗の修行としても行われていた。その場合、南無妙法蓮華経の唱題は南無阿弥陀仏の称名念仏などと並行して行われた[21]。しかし、日蓮は念仏などと並んで題目を唱えることを否定し、南無妙法蓮華経の唱題のみを行う「専修題目」を主張した[注釈 12]

日蓮が念仏と禅宗を破折したことは大きな波紋を広げた。念仏の信徒であった東条郷の地頭・東条景信が日蓮の言動に激しく反発して危害を及ぼす恐れが生じたため、日蓮は清澄寺にいることができなくなり、兄弟子である浄顕房・義浄房に導かれて清澄寺を退出した[注釈 13]

伝承によれば、立宗に当たって日蓮は、それまでの「是聖房蓮長」の戒名を改め、「日蓮」と名乗った。また立宗の後、両親を訪れ、妙法蓮華経の信仰に帰依せしめたと伝えられる[22]
鎌倉での活動
「立正安国論」

日蓮は建長5年(1253年)、鎌倉に移り、名越の松葉ヶ谷に草庵を構えて布教活動を開始した。この年の11月、後の六老僧の一人である弁阿闍梨日昭が日蓮の門下となったとされる[23]。鎌倉進出の時期については、建長6年または同8年とする説もある[24]

鎌倉進出当時、日蓮が辻説法によって布教したと伝承されるが、日蓮遺文には辻説法を行った事実の記述はない。この時期に、僧侶としては日昭・日朗・三位房・大進阿闍梨、在家信徒としては富木常忍・四条頼基(金吾)・池上宗仲・工藤吉隆らが日蓮の門下になったと伝えられる[25]

正嘉元年(1257年)8月、鎌倉に大地震があり、ほとんどの民家が倒壊するなど、大きな被害が出た(正嘉地震[26]。日蓮は多くの死者を出した自然災害を重視し、災害の原因を仏法に照らして究明し、災難を止める方途を探ろうとした[27]。伝承によれば、正嘉2年(1258年)、日蓮は駿河国富士郡岩本にある天台宗寺院・実相寺に登り、同寺に所蔵されていた一切経を閲覧した[28]。この時期、日蓮が仏教の大綱を再確認した成果は、「一代聖教大意」「一念三千理事」「十如是事」「一念三千法門」「唱法華題目抄」「守護国家論」「災難対治抄」などの著作にまとめられた。

その上で日蓮は、文応元年(1260年)7月16日、「立正安国論」を時の最高権力者にして鎌倉幕府第5代執権の北条時頼に提出して国主諫暁を行った[27]。「立正安国論」によれば、大規模な災害や飢饉が生じている原因は、法然(日本浄土宗の宗祖)の教えが流行し、為政者を含めて人々が正法に違背して悪法に帰依しているところにあるとし、その故に国土を守る諸天善神が国を去ってその代わりに悪鬼が国に入っているために災難が生ずる(これを「神天上の法門」という)とする。そこで日蓮は、災難を止めるためには為政者が悪法への帰依を停止して正法に帰依することが必要であると主張する[注釈 14]。さらに日蓮は、このまま悪法への帰依を続けたならば、自界叛逆難(内乱)と他国侵逼難(他国からの侵略)により、日本が滅びると予言し、警告した。

「立正安国論」で日蓮は、とりわけ法然の専修念仏を批判の対象に取り上げる。それは、貴族階級から民衆レベルまで広がりつつあった専修念仏を抑止することが自身の仏法弘通にとって不可欠と判断されたためである。この時期に作成された「守護国家論」「念仏者追放宣旨事」などでも徹底した念仏批判が展開されている。
松葉ヶ谷の法難

しかし「立正安国論」による国家諫暁は鎌倉幕府から完全に無視された。その一方で日蓮の念仏破折は念仏勢力の激しい反発を招き、文応元年(1260年)8月27日の夜、松葉ヶ谷の草庵が多数の念仏者によって襲撃された[注釈 15](松葉ヶ谷の法難)。この法難の背後には執権・北条長時とその父・北条重時(北条時頼の岳父)の意思があったと推定される[30]

日蓮は草庵襲撃の危難を免れたが、もはや鎌倉にいられる状況ではなくなった。そこで、下総国若宮(現在の千葉県市川市)の富木常忍の館に移り、布教活動を展開したとされる。この時期に下総国在住の大田乗明・曾谷教信・秋元太郎らが日蓮に帰依したと伝えられる[31]
伊豆流罪

弘長元年(1261年)5月12日、鎌倉に戻った日蓮は幕府によって拘束され、伊豆国伊東に流罪となった[32]。その際、俎岩(まないたいわ)という岩礁に置き去りにされた、あるいは川奈の漁師・船守弥三郎の保護を受けたという伝説があるが、いずれも根拠のない伝承に過ぎない[33]


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