日英博覧会
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なお、世界遺産となった明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業の年代設定の下限を1910年としたのは、この博覧会の成功により産業国家の仲間入りを果たしたと見做されたことによる[4]
展示
日本側男爵大浦兼武の筆による「平和」
博覧会で展示されたものの一つ

主要な施設として、歴史宮・産業宮・芸術宮などがあった。日本の美術品や建築模型が多く展示され好評を博した。また、東洋宮と呼ばれる区画では、台湾朝鮮満州などにおける植民地経営とそれがもたらす豊富な資源や文化についての展示が大々的に行われるとともに、赤十字展示を行い、国際社会の一員であることをアピールした。

さらに、陸軍からは陸軍戸山学校軍楽隊々長永井建子以下36名の軍楽隊が、海軍からは巡洋艦生駒」(乗員800名)が派遣されている。

これらの公式展示とは別に余興区画がつくられ、数十人の力士団もロンドンに渡って土俵を造って相撲を披露、日本人農民も農村風景を描いて米俵製作の実演日本の伝統的な農村風景を紹介した。その他、アイヌや、台湾のパイワン族が住み込みで生活の様子や民族舞踏などの展示を行った。また、農学者でもある侯爵松平康荘が『The Culture of Kaki(の栽培)』を出品した。

この余興部には、156人の芸人や職人、アイヌ10人、台湾の高山族24人が参加して評判になったが、藁葺の汚い小屋の中で半裸の職人が桶や傘を作る姿を動物園よろしく外国人が金を払って見ているのを不快に思う在英邦人も少なくなかった[1]
英国側

英国側からの出品は小規模だった[2]。これは、英国側の開催主であるイムレ・キラルフィーが、インド帝国博覧会、大英帝国博覧会など帝国主義的な国際博覧会を商業ベースで成功させていた興行師であったことから、異国趣味を喜ぶ大衆向けに日本風俗の見世物興行を強調したものとなったことや[2]、イギリス政府の補助金がなかったことなどが理由とみられた[1]。そのため、日英博とは名ばかりの「英国における日本展」であるとして失敗と見る日本人政治家、ジャーナリストもあった[2]
主催者ホワイトシティの博覧会場

興行主のイムレ・キラルフィー(1845-1919)はハンガリー生まれの元旅芸人で、一家でキラルフィー一座を率いて欧米各地で音楽やダンスのショーを巡演していた。ミュージカルの嚆矢とされる『The Black Crook』やパリの人気舞台『八十日間世界一周』の再演などでの大胆な演出が受けてニューヨークで大成功を収めたのち、屋外興行に進出してシカゴ万国博覧会 (1893年)でショーを公演した。イギリスに渡り、ホワイトシティにスタジアムや展覧会場、人工湖などを持つ博覧会用の施設を造り、1908年に仏英博覧会を開催、英仏の文化の展示や植民地のセネガル人150人を集めたセネガル村を見世物とし、800万人を集客した[5]。これに続き、同会場を使って日英博覧会を開催し、その後1912年にラテン英国博覧会、1914年に英米博覧会を手掛けた。
遺構

博覧会の際に作られた
日本庭園はハマースミス公園として残っている。

日本建築紹介のために造られた台徳院霊廟の建築模型(縮尺10分の1)が王室コレクションに残っていた。増上寺に長期貸与され、2015年4月から同寺で公開されている。

博覧会に展示された西本願寺の勅使門(唐門)の復元は博覧会終了後にキューガーデンに移築され、現在ジャパニーズ・ランドスケープ区域内の建造物として公開されている[6]

脚注^ a b c d e日英博覧会の評価についての一考察 - 伊藤大祐、国学院大学紀要33号
^ a b c d e『日英博覧会(1910年) - 公式史料と関連文献集成』Eureka Press


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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