日系人
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

さらに1924年、排日移民法が施行され、いかなる形の新規移民も認められなくなって以降、第二次世界大戦前には、先述のブラジルのほか、ペルーアルゼンチンボリビアパラグアイ[12][13][14]ウルグアイ[12][13][14]チリへの移民も盛んに行われた。一時期はフィリピンへも移民が行われた。

第二次世界大戦前には、日本(旧:大日本帝国)が領有していた南樺太朝鮮半島台湾南洋諸島へ渡った者も多いが、これは日本領地内の移動と考える事もできる。法的には外国であった満州国への移住も、南北アメリカ州への移住と様相が相違していたともいえるだろう。これらの地域からは、日本が敗戦した1945年から数年間の引き揚げによって民間・軍属合わせて600万人を超えるとも言われる日本人はほぼ一掃された[15]。両親を失ったり、引き揚げの途中で家族とはぐれたりして一家離散を余儀なくされ、孤児となった一部の日本人年少者が現地人の家庭に引き取られ、現地人として養育された例もある(中国残留孤児も参照)。

だが、南洋諸島で居住していた日本人男性と現地人女性との間に生まれた子供は、そのまま米軍統治下に留まって米国籍を取る者が数多くいた。その後独立したパラオでは、クニオ・ナカムラなど日系人の政治家も多く、現在も日系人が大きな発言力を持っている。また数は少ないが、敗戦後にベトナムインドネシアに留まり、これらの国籍を取得した残留日本兵もいる。

アメリカ州への移民は主に農業に従事する人が多かった。大規模農業プランテーションでの小作のほか、日本国と受け入れ先国との取り決めにより一定の土地を自由に開墾する権利を与えられたというケースがよく見られる。しかし多くの場合、その土地は現地の人が開墾に二の足を踏む様な劣悪な場所であり、また流通市場の確保等の面において様々な困難・差別を受ける事も多く、初期の移民は白人地主に搾取される事も多かったため、成功に至れずに潰えてしまった者、帰国した者も少なくない。

それらの悪環境の中にあっても、日本人の特質とも言えるきめの細やかな管理が重要となる養鶏果実栽培等の分野を中心に徐々に成功する者も現れ、ブラジルでは大地主になる者も現れた。これらの成功者の功績等により、日系人は移民受け入れ国内でも一定の評価を得るに至り、"nikkei"(日系)と言う単語が認知される程になった所が多い。
戦後

第二次世界大戦直後には沖縄県等の戦争の傷跡の深い地域から南米に移民する人が多かった。例えば、ボリビアには「オキナワ」と言う名前の日本人移住者が作った村がある。この移住事業にはGHQと駐留アメリカ軍の意向が強く働いたと言われている。

日本政府は、1956年にボリビアと移住協定を締結し、1959年にパラグアイと移住協定を締結し、1963年にアルゼンチンと移住協定を締結し、1963年にブラジルと移住・植民協定を締結するなど南米に移民を送り出した。1959年にパラグアイと締結された日本の国策による移住協定は、1989年に効力が無期限延長に改定され、85,000人の日本人が受け入れ可能となっている[16]

戦後の南米の移住者達には、日本政府の比較的手厚い支援があった。JICA(国際協力事業団、現国際協力機構)の南米での事業の大きな柱の一つは日系人移住者の支援にある。JICAによる日系社会支援は資金援助よりも、多数の農業専門家を派遣したり、日系社会青年ボランティア制度を運用する等と言った、人的・技術的な支援が主になっている。

一方で、日系人は日本人によって偏見の目で見られることもあった。1959年、日系人としてはじめてアメリカ合衆国下院の議員となったダニエル・イノウエが来日、岸信介内閣総理大臣と面談した際に、イノウエの「いつか日系人が米国大使となる日が来るかもしれません」という発言に対し、岸は「日本には、由緒ある武家の末裔、旧華族や皇族の関係者が多くいる。彼らが今、社会や経済のリーダーシップを担っている。あなたがた日系人は、貧しいことなどを理由に、日本を棄てた『出来損ない』ではないか。そんな人を駐日大使として、受けいれるわけにはいかない」と返答している[17]

移住者数は第二次世界大戦終結から1950年代にかけて、ベビーブームによって人口爆発が起こった事などから飛躍的に増加したが、この時に「土地がなくなる」などと言った危機感があり、国策的に移民が行われた。周到な準備がなされずに移民送出が行われたため、「棄民(きみん)」と呼称されることもある。しかし、日本が高度経済成長を遂げ、国民が豊かになった1960年代に移民希望者が減少し始め、外国に移住するメリットがなくなり、1980年代から1990年代にはごくわずかとなった。
近年

1970年代末以降の「移民」は主に、海外への憧れによって海外移住を求める者がするものとされ、アメリカ合衆国(ニューヨーク市やカリフォルニア州)やヨーロッパの大都市(ロンドンパリなど)を中心に以前と比べるとかなり小規模ながらも行われた。この時代になると、交通機関、メディア・通信技術の発達、またビザなどの渡航に関する手続きが簡素になったため(主要国へビザなし観光渡航などが出来るようになった)海外の情報が大量に流入し、それに憧れる者が増えたためである。1970?1980年代などに行われた、日本からの留学生が帰国せずに居留国にて永住権を取得する、または現地国籍を取得する行為は、通貨の価値バランスにも影響されて(1990年代初頭に1ドル80-100円時代があったため)1980年代末?1990年代初頭の留学ブームで多少助長された。

しかしながら、バブル崩壊後から2010年前後には留学ブームの加熱自体がほぼ終息し、留学生の数は最盛期に比べかなり減少したため、現在の主な移民理由は外国人との結婚、親族の国への移民、1980年代の日本企業が海外に進出した時、外国で生まれた子供が成人し、日本国籍を選択しない場合、長年外国に住む帰国子女が日本になじめず、居留国に同化、移民するなどが主な理由である。

@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}現在[いつ?]、日系人社会は、19世紀末から20世紀初頭に移民した所では3世?5世が、戦後移民した所でも2世・3世が中心世代となってきている。日本国外にいる日系人を中心に日本語が読み書きできない、話せない日系人も珍しくなくなっている。特に、アメリカ州では、太平洋戦争下で、日系人の強制収容や、激しい差別が行われたため、日系人が移民先の国民である事・敵性外国人ではない事を国内に示すため、1930-1940年代生まれの3世以降には、わざと日本語を教えなかった家庭が多くあった事も影響している。
日本の国籍上の取り扱い

日本国の国籍法は、1985年に改正されるまで父系血統主義をとっていた[18]。すなわち、父親が日本国民であれば子も日本国籍を得られるが、母親のみが日本国民である場合、子は日本国籍を得られなかった[18]。20世紀前半に日本から移民した1世のもとで生まれ、現地で結婚した日系2世の女性から生まれた子供(3世)は、日本国籍を得ていない[要出典]。またこの事情により日本国籍を得られなかった3世男子の子供(4世)も日本国籍を得られない。日本国の国籍法の父母両系血統主義の採用から30年近くが経過し、このような事情が存在していることを想像することは難しくなっているが、留意すべき点である[独自研究?]。

日系人はしばしば複数の国籍を持っている。1985年以降、日本は国籍に関して主に「父母両系統血統主義」(親のいずれかが日本国民ならば日本国籍を取得できる)である[18]。一方で日本人が多く移住した北米・南米の多くの国は主に「出生地主義(生地主義)」(生まれた国の国籍を取得できる)を採っているためである。近年の改正により、出生地主義国も血統主義的な要素を、血統主義国も出生地主義的要素を統合する傾向がある。例えばカナダ人夫婦の子供は、カナダ国外で生まれてもカナダ国籍が与えられる。

生地主義の国で1985年以降に生まれた者は、両親のどちらかが日本国籍を保持している限り日本と出生国両方の国籍を持つことができる[18]。また生地主義の国ではなくとも、日本人と血統主義の国の人間との国際結婚であれば、生まれた子供が二重国籍を持つ可能性がある(イランなど父親のみの血統主義しか認めない国もある)。またそのような国際結婚家庭の子供が生地主義の国で生まれた場合(例えばペルー人と日本人の子供がアメリカ合衆国で生まれた場合)、子供は三重国籍となる。

ただし、中華人民共和国など一部の国では血統主義の規定が厳密である。例えば、出生した日本人と中華人民共和国籍保持者の子は、出生とともに中国籍を保有するか、日本籍を選択することを強いられる。仮にも日本人と中国人の親を持つ子供が両国に出生届を出して、両方の国籍を得ようとしても、日本の国籍を選択する意向がないか厳しく調査される。中国当局に外国籍の所持が発覚した場合、中国籍を剥奪されるため、中国人と日本人夫婦の子孫は日系人にはなりえたとしても、日本国籍と中国籍を持つ多重国籍になることはほぼあり得ない。

海外で出生の子供の出生届を日本の大使館総領事館に提出しなかったり、出生届に国籍留保の記入をしなかった場合は、両親とも日本人であっても子供に日本国籍は与えられない(ただし、養子でなく日本国民であった者の子の場合、日本に引き続き3年以上住所または居所が有れば、帰化手続きを取って日本国籍を取得することができる)。

日本の国籍法は、経過措置等を除き、多重国籍を防止するよう1984年に改正、1985年に施行されたため、基本的には22歳になるまでに国籍を選択しなければならないとされている[18]。しかし、日本国籍の選択の宣言をしても、他の国が多重国籍を権利として認めている場合にはその国籍は失われないため、多重国籍の状態でいられることになる。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:156 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef