ハワイ以外で移民が主に向かった先は、南北アメリカ大陸であった。1893年のグアテマラ移民をはじめとして、榎本武揚の提唱により1897年に35名がメキシコへ渡ってグアテマラ国境に近い南部のアカコヤグアに入植した「榎本移民」[10] をきっかけにラテンアメリカへの組織的移住が始まった[11]。移民先はアメリカ合衆国(特に西海岸カリフォルニア州とハワイ州)とブラジル(特にサンパウロ州とパラナ州)が圧倒的に多い。1908年、日本政府と合衆国政府の間で紳士協定が結ばれ、日本からの移民制限、ハワイから米国本土への移民禁止措置が行われ、事実上既に移民した者の親族以外の渡航が不可能となった(親戚でなくとも、移民との結婚を前提に、いわゆる「写真花嫁」などとして渡航した女性はいた)。さらに1924年、排日移民法が施行され、いかなる形の新規移民も認められなくなって以降、第二次世界大戦前には、先述のブラジルのほか、ペルー、アルゼンチン、ボリビア、パラグアイ[12][13][14]、ウルグアイ[12][13][14]、チリへの移民も盛んに行われた。一時期はフィリピンへも移民が行われた。
第二次世界大戦前には、日本(旧:大日本帝国)が領有していた南樺太、朝鮮半島、台湾、南洋諸島へ渡った者も多いが、これは日本領地内の移動と考える事もできる。法的には外国であった満州国への移住も、南北アメリカ州への移住と様相が相違していたともいえるだろう。これらの地域からは、日本が敗戦した1945年から数年間の引き揚げによって民間・軍属合わせて600万人を超えるとも言われる日本人はほぼ一掃された[15]。両親を失ったり、引き揚げの途中で家族とはぐれたりして一家離散を余儀なくされ、孤児となった一部の日本人年少者が現地人の家庭に引き取られ、現地人として養育された例もある(中国残留孤児も参照)。
だが、南洋諸島で居住していた日本人男性と現地人女性との間に生まれた子供は、そのまま米軍統治下に留まって米国籍を取る者が数多くいた。その後独立したパラオでは、クニオ・ナカムラなど日系人の政治家も多く、現在も日系人が大きな発言力を持っている。また数は少ないが、敗戦後にベトナムやインドネシアに留まり、これらの国籍を取得した残留日本兵もいる。
アメリカ州への移民は主に農業に従事する人が多かった。大規模農業プランテーションでの小作のほか、日本国と受け入れ先国との取り決めにより一定の土地を自由に開墾する権利を与えられたというケースがよく見られる。しかし多くの場合、その土地は現地の人が開墾に二の足を踏む様な劣悪な場所であり、また流通市場の確保等の面において様々な困難・差別を受ける事も多く、初期の移民は白人地主に搾取される事も多かったため、成功に至れずに潰えてしまった者、帰国した者も少なくない。
それらの悪環境の中にあっても、日本人の特質とも言えるきめの細やかな管理が重要となる養鶏や果実栽培等の分野を中心に徐々に成功する者も現れ、ブラジルでは大地主になる者も現れた。これらの成功者の功績等により、日系人は移民受け入れ国内でも一定の評価を得るに至り、"nikkei"(日系)と言う単語が認知される程になった所が多い。 第二次世界大戦直後には沖縄県等の戦争の傷跡の深い地域から南米に移民する人が多かった。例えば、ボリビアには「オキナワ」と言う名前の日本人移住者が作った村がある。この移住事業にはGHQと駐留アメリカ軍の意向が強く働いたと言われている。 日本政府は、1956年にボリビアと移住協定を締結し、1959年にパラグアイと移住協定を締結し、1963年にアルゼンチンと移住協定を締結し、1963年にブラジルと移住・植民協定を締結するなど南米に移民を送り出した。1959年にパラグアイと締結された日本の国策による移住協定は、1989年に効力が無期限延長に改定され、85,000人の日本人が受け入れ可能となっている[16]。 戦後の南米の移住者達には、日本政府の比較的手厚い支援があった。JICA(国際協力事業団、現国際協力機構)の南米での事業の大きな柱の一つは日系人移住者の支援にある。JICAによる日系社会支援は資金援助よりも、多数の農業専門家を派遣したり、日系社会青年ボランティア制度を運用する等と言った、人的・技術的な支援が主になっている。 一方で、日系人は日本人によって偏見の目で見られることもあった。1959年、日系人としてはじめてアメリカ合衆国下院の議員となったダニエル・イノウエが来日、岸信介内閣総理大臣と面談した際に、イノウエの「いつか日系人が米国大使となる日が来るかもしれません」という発言に対し、岸は「日本には、由緒ある武家の末裔、旧華族や皇族の関係者が多くいる。彼らが今、社会や経済のリーダーシップを担っている。あなたがた日系人は、貧しいことなどを理由に、日本を棄てた『出来損ない』ではないか。そんな人を駐日大使として、受けいれるわけにはいかない」と返答している[17]。 移住者数は第二次世界大戦終結から1950年代にかけて、ベビーブームによって人口爆発が起こった事などから飛躍的に増加したが、この時に「土地がなくなる」などと言った危機感があり、国策的に移民が行われた。周到な準備がなされずに移民送出が行われたため、「棄民(きみん)」と呼称されることもある。しかし、日本が高度経済成長を遂げ、国民が豊かになった1960年代に移民希望者が減少し始め、外国に移住するメリットがなくなり、1980年代から1990年代にはごくわずかとなった。 1970年代末以降の「移民」は主に、海外への憧れによって海外移住を求める者がするものとされ、アメリカ合衆国(ニューヨーク市やカリフォルニア州)やヨーロッパの大都市(ロンドンやパリなど)を中心に以前と比べるとかなり小規模ながらも行われた。この時代になると、交通機関、メディア・通信技術の発達、またビザなどの渡航に関する手続きが簡素になったため(主要国へビザなし観光渡航などが出来るようになった)海外の情報が大量に流入し、それに憧れる者が増えたためである。1970?1980年代などに行われた、日本からの留学生が帰国せずに居留国にて永住権を取得する、または現地国籍を取得する行為は、通貨の価値バランスにも影響されて(1990年代初頭に1ドル80-100円時代があったため)1980年代末?1990年代初頭の留学ブームで多少助長された。 しかしながら、バブル崩壊後から2010年前後には留学ブームの加熱自体がほぼ終息し、留学生の数は最盛期に比べかなり減少したため、現在の主な移民理由は外国人との結婚、親族の国への移民、1980年代の日本企業が海外に進出した時、外国で生まれた子供が成人し、日本国籍を選択しない場合、長年外国に住む帰国子女が日本になじめず、居留国に同化、移民するなどが主な理由である。
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