日系ブラジル人
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労働者不足の解消

ブラジルはアフリカ大陸から送り込まれる奴隷コーヒー園などにおける農業労働者として重用していたものの、奴隷制度に対する内外の批判を受けたことから、1888年奴隷制度廃止を行った。その後農業労働者が不足することとなったため、イタリアスペインドイツなどのヨーロッパ諸国からの移民を受け入れ始めた。しかし農場労働者としてブラジルに渡ったイタリア人移民が、奴隷と変わらぬ住環境や労働の過酷さ、賃金の悪さなどの待遇の悪さのために反乱をおこし、その後移民を中止したために再び農業労働者が不足することとなった。

これを受けてブラジル政府は、1892年に日本人移民の受け入れを表明したものの、日本とブラジルとの間に正式な外交関係がないため日本からの移民を送り出すことができなかった。その後1894年に「殖民協会」の根本正がブラジルへ赴き、ブラジルが日本人移民にとって適切な移民先であるとする報告を行い、翌1895年には日本とブラジルの間で「日伯修好通商航海条約」が結ばれ、1897年にはリオ・デ・ジャネイロ州ペトロポリスに日本の公使館が設けられた。
新たな移民先1900年代のサンパウロ市

外交関係が樹立されたことで、日本から移民を送り出す法的な素地が出来上がったが、日本の外務省は先に起きたイタリア人移民の事案を根拠に、ブラジルへの移民を送り出すことを躊躇していた。さらに1897年8月に「吉佐移民会社」が、初の正式移民として1500人を「土佐丸」で神戸港からブラジルへ向け送り出す予定であったが、受け入れ先のブラド・ジョルダン商会が出港直前に急遽受け入れを中止する事件が起きたこともあり、その後日本政府はブラジルへ向けた移民を許可しなくなってしまった。

さらにそれまで多くの日本人移民を受け入れていたアメリカ、特にカリフォルニア州を中心とした西海岸一帯を中心に、人種差別を基にした日本人移民排斥が激しくなったために、1900年に日本政府はアメリカへの移民を制限することとなった。

その後1904年に起きた日露戦争において、日本はロシア帝国に対して勝利をおさめたものの、ロシアから賠償金を得られなかったこともあり経済は混乱し、農村の貧しさが深刻になっていた。さらにその後アメリカ政府が日本人移民の受け入れ数の制限を強化したことや、アメリカに代わる移民受け入れ先として有望視されていたオーストラリアカナダ政府も日本人移民の受け入れを制限したことから、日本政府は新たな移民の受け入れ先を模索することとなった。
日本人移民開始水野龍(前列中心)笠戸丸、1908年

1905年にブラジルに赴任した杉村濬公使が、ブラジル政府の閣僚から日本人移民の実施を打診されたことから、その後移民の候補地の1つであるサンパウロ州を視察し早期の日本人移民の実施を本省に打診した。その後杉村の報告書が大阪毎日新聞に掲載されたことから、日本政府だけでなく移民希望者の間で大きな反響を呼ぶこととなった。

これを受けて、移民の送り出しを行っていた「皇国殖民会社」の役員であった水野龍がブラジルに向かい、1907年11月には労働者不足にあえぐサンパウロ州政府との間に、「1908年以降に3000人の移民を送り出す」旨の契約を締結し、その後日本全国で移民希望者を募った。なおこの際に、サンパウロ州政府は渡航費の補助を行うことにしたものの、移民の定住とより多くの労働力の確保を求めて「家族単位での移民」を条件としてつけることとなった。

募集期間が半年弱と短かったうえに、「家族単位での移民」という条件のために移民希望者を集めるのに苦心したものの、最終的に781人が第1回の移民として皇国殖民会社と契約を行った。なお、このうちの3分の1を超える325人が沖縄県出身者で、その後も多くの沖縄県民がブラジルへと移民した。家族単位での移民であったため独身者は認められなかった。そのため、見ず知らずの男女が形式上の夫婦となり家族が構成されるケースが多発し、「構成家族」とよばれた。その多くはブラジルで実際に結婚している。

その後1908年4月28日に、781人の移民は東洋汽船の「笠戸丸」で神戸港を出港し、シンガポール南アフリカを経由して6月18日サンパウロ州サントス港に到着した。サントス港に到着した移民たちは、その後サンパウロへ鉄道で移動し、移民宿泊施設に収容された後に契約したコーヒー園へと向かった。なお1910年5月には、その後経営難に陥った「皇国殖民会社」を受け継いだ「竹村殖民商館」によって第2回の日本人移民が行われ、906人がサントスへと送られた。
過酷な待遇コーヒー収穫を行う日本人移民

「皇国殖民会社」が移民希望者を募る際に、ブラジルでの高待遇や高賃金をうたったために、移民の殆どは数年間の間コーヒー園などで契約労働者として働き、金を貯めて帰国するつもりであった。しかし、先に移民して来たイタリア人同様、日本人国移民も奴隷解放令に伴う労働力不足を補うために導入されたもので、法律上の地位こそ自由市民であったものの、一部のコーヒー園を除くとその実生活は奴隷と大差ないものであった。

実際に居住環境は悪く労働は過酷で、賃金の悪さなどの待遇が悪かったために、帰国のための貯金どころではなく借金が増える一方であった。当時の農園主はこのようにして、小作人を土地に縛り付けた。このため、日系移民の間で移民計画を「棄民」(日本国に棄てられた民)と揶揄する声がでた。

この様な待遇の悪さや賃金の悪さから、皇国殖民会社に対して帰国を申し出る者が出た他、ストライキや夜逃げも多く発生し、リオ・デ・ジャネイロ州などの近隣州やアルゼンチンへと渡る者もあらわれ、1909年外務省野田良治通訳官が調査した結果、笠戸丸で移民し、当初契約したコーヒー園に定着したのは全渡航者の4分の1のみであったと報告されている。日本人移民のストライキは少なかったが、夜逃げは多かった。
成功と定住化日本人移民が運営するジャガイモ畑日系移民の家族、1930年頃

コーヒー農園から逃亡した多くの日本人移民は、結果的に自らの農地を取得し自作農となることを選択し、日本人移民同士で資金を出し合い共同で農地を取得し、「植民地」と呼ばれる集団入植地や農業組合を形成するようになり、1919年には、初の日系農業組合として、ミナスジェライス州に「日伯産業組合」が設立された。ただし、多くの日系移民はサンパウロ州パラナ州に居住しており、ミナスジェライス州には少ない。


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