1998年(平成10年)になって、ようやく新たな土地の提供が決定したが、一面に粘土質の赤い土が広がっているだけの、農業に適さないという点では移住時と大差ない土地を提供されたに過ぎず、年配の移住者のなかには「年をとってからこんな土地をもらったって、しゃくに障るだけだ」と憤る者もいた。
2000年(平成12年)7月に現地に残留した者を中心とした126名が、日本国政府を相手取って約25億円の国家損害賠償を求めて提訴した。翌2001年(平成13年)8月の3次提訴までに、集団帰国の際に日本へ戻った51名も加わり、約32億円の賠償を求めた。裁判は6年にわたって続き、2006年(平成18年)6月7日に東京地方裁判所において、国(外務省及び農林水産省)の法的責任を全面的に認めたが、国家損害賠償に関しては、除斥期間(20年時効)を理由に、原告の請求を棄却する、との判決が下された[1]。原告側は、判決を不服として控訴した[2]。
その後、日本国政府は小泉純一郎首相(当時)が原告側に謝罪の意を伝えるとともに、原告約170人を含む全移住者約1,300人を対象として、ドミニカ共和国在住の原告に、1人当たり200万円を支給することを最高に、日本在住の原告に130万円、ドミニカ共和国在住の非原告に120万円、日本在住の非原告に50万円の「特別一時金」を支給する、という、包括的な内容の和解案を提示した。この政府の発表を受けて、原告団は7月13日にドミニカ共和国の首都サントドミンゴで協議を行い、東京高等裁判所への控訴取り下げを条件とする政府の和解案を受け入れることを決定した[3]。7月21日に総理大臣官邸で小泉首相と面会し、正式に和解が成立した。2006年(平成18年)11月に『ドミニカ移住者に対する特別一時金の支給等に関する法律』が成立した。
また、ドミニカ政府も代替地などの補償を受けていない45世帯に対して、2022年(令和4年)2月から1世帯あたり約844万4000ドミニカ・ペソ(日本円で約2000万円)の補償金支払いを開始したことが2023年(令和5年)8月に明らかとなった[4]。
著名な日系ドミニカ人
ロバート・ミキイ・タカタ・ピメンテル(ロバート高田) - 駐日ドミニカ共和国大使 [5]
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 集団帰国の情報すら知らされていない者もいたことが、後の調べで明らかになっている。
出典^ “移民訴訟判決要氏B東京地裁”. 47NEWS. 共同通信社 (全国新聞ネット). (2006年6月7日). ⇒オリジナルの2013年6月20日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20130620155034/http://www.47news.jp/CN/200606/CN2006060701001008.html 2012年11月9日閲覧。
^ “請求棄却不服と控訴 ドミニカ移民訴訟原告”. 47NEWS. 共同通信社 (全国新聞ネット). (2006年6月8日). ⇒オリジナルの2013年6月20日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20130620144515/http://www.47news.jp/CN/200606/CN2006060801002546.html 2012年11月9日閲覧。
^ “政府和解案を原告が受諾 ドミニカ移民訴訟”. 47NEWS. 共同通信社 (全国新聞ネット). (2006年7月14日). ⇒オリジナルの2013年6月20日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20130620140217/http://www.47news.jp/CN/200607/CN2006071401000352.html 2012年11月9日閲覧。
^ 大月美佳 (2023年8月6日). “ドミニカ共和国、日本人移民に補償金支払い…事前に約束した農地割り当てず”. 読売新聞. 2023年8月6日閲覧。
^ タカタ駐日ドミニカ共和国大使による宇都外務副大臣表敬 。外務省
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