日米和親条約
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1854年3月31日 - 日本特派大使[16] ペリーが署名

1854年7月15日 - アメリカ合衆国上院(アメリカ合衆国第33議会(英語版))が批准に助言と同意

1854年8月7日 - フランクリン・ピアース大統領が批准を裁可

1855年2月21日 - 下田で批准書を交換

1855年6月22日 - 大統領が条約締結権行使を宣言

内容日米和親条約調印地
横浜市中区日本大通(横浜港開港広場)下田条約が締結され、暫定的なアメリカ人休息所として設定された了仙寺

日米和親条約では次のような内容が定められた[17]
第1条


日米両国・両国民の間には、人・場所の例外なく、今後永久に和親が結ばれる。

第2条


下田(即時)と箱館(1年後)を開港する(条約港の設定)。この2港において薪水、食料、石炭、その他の必要な物資の供給を受けることができる。

物品の値段は日本役人がきめ、その支払いは金貨または銀貨で行う。

第3条


米国船舶が座礁または難破した場合、乗組員は下田または箱館に移送され、身柄の受け取りの米国人に引き渡される。

避難者の所有する物品はすべて返還され、救助と扶養の際に生じた出費の弁済の必要は無い(日本船が米国で遭難した場合も同じ)。

第4条


米国人遭難者およびその他の市民は、他の国においてと同様に自由であり、日本においても監禁されることはないが、公正な法律には従う必要がある。

第5条


下田および箱館に一時的に居留する米国人は、長崎におけるオランダ人および中国人とは異なり、その行動を制限されることはない。

行動可能な範囲は、下田においては7里以内、箱館は別途定める。

第6条


他に必要な物品や取り決めに関しては、両当事国間で慎重に審議する。

第7条


両港において、金貨・銀貨での購買、および物品同士の交換を行うことができる。

交換できなかった物品はすべて持ち帰ることができる。

第8条


物品の調達は日本の役人が斡旋する。

第9条


米国に片務的最恵国待遇を与える。

第10条


遭難・悪天候を除き、下田および箱館以外の港への来航を禁じる。

第11条(和文)


両国政府が必要と認めたときに限って、本条約調印の日より18か月以降経過した後に、米国政府は下田に領事を置くことができる(兩國政府に於て無據儀有之候時は模樣に寄り合衆國官吏の者下田に差置候儀も可有之尤約定調印より十八箇月後に無之候ては不及其儀候事)。

第11条(英文)


両国政府のいずれかが必要とみなす場合には、本条約調印の日より18か月以降経過した後に、米国政府は下田に領事を置くことができる(There shall be appointed, by the Government of the United States, Consuls or Agents to reside in Simoda, at any time after the expiration of eighteen months from the date of the signing of this treaty, provided that either of the two Governments deem such arrangement necessary.)。

第12条


両国はこの条約を遵守する義務がある。

両国は18か月以内に条約を批准する。

また、下田条約では次のような細則が定められた。

アメリカ人の移動可能範囲は下田より7、箱館より5里四方に限り、武家・町家に立ち入る事を禁ず。

アメリカ人に対する暫定的な休息所として了仙寺玉泉寺に置き、米人墓所は玉泉寺に置く。

アメリカ人が鳥獣を狩猟する事を禁ず。

※全文についてはウィキソースを参照。
アメリカ側の目的

当時アメリカは、清をはじめとする東アジアとの貿易のために太平洋航路を必要としていた。当時の蒸気船では十分な燃料を積み込むことはできず、補給のための寄港地として日本の港が必要であった[18]。水、食料についても補給が必要であり、特に冷蔵庫もしっかりした保存食もない時代において、脚気壊血病の防止、また乗組員の満足できる味と量の食事のためには生野菜や肉類の補給が必要であった。また、北太平洋での鯨油を目的とした捕鯨を行う上で、国交がない状態では漂着した自国の捕鯨船員の引渡しもままならず不便であった。このような背景から、ペリーの来航目的には通商交渉も含まれてはいたものの無理な交渉は行わず、人身保護と補給を主目的とした和親条約が締結されることとなった。下田と函館が開港場に選ばれたのも、補給の利便性を重視したものであった。
影響

幕府はペリーの来航を受けて、1853年9月、大船建造の禁を解除し、遠洋航海が可能な大型船建造の禁が解かれた。幕府と諸藩は建造や購入を通じて西洋式艦船を取得し、海軍建設を始めた。1855年、幕府は長崎海軍伝習所を設立し、幕府や諸藩から派遣された若者に、航海術、砲術、造船学などを学ばせた。オランダはオランダ海軍所有の軍艦スームビング(後の観光丸)を贈与し、この年に22名、1857年には37名の教官団を伝習所に送り込んだ[19]
エピソード
通訳

ペリーは日本との交渉のために、漢文担当の主席通訳官サミュエル・ウィリアムズおよびオランダ語通訳アントン・ポートマン(後に駐日米国代理公使)を乗艦させていた[20]。フィルモア大統領の親書は漢文およびオランダ語に翻訳され、日米和親条約も日本語、英語に加えて漢文版、オランダ語版が作成されて内容の確認が行われている。会話による交渉はオランダ語が中心となり、親書受け渡しの儀式にはポートマンのみが参列しているが、文書による交渉では漢文が併用された[21]。なお、ウィリアムズは漂流民から日本語を学んでおり、ペリーはウィリアムズに日本語での直接交渉も期待していたが、ウィリアムズは「自身の日本語はそのレベルには無い」とこれを辞退している。日本側でもオランダ語通詞の堀達之助は多少の英語ができ、来航した米国艦に対して「I can speak Dutch!」と叫んだとされている。2回目の来航時には長崎でラナルド・マクドナルドから英語を学んだ森山栄之助が第1通訳となっている[22]


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