翌年の1854年2月13日(嘉永7年1月16日)、再び来航して7隻の艦船が江戸湾(東京湾)に侵入し横浜沖に停泊した。蒸気船はポーハタン号(旗艦)が加わり、3隻になっていた。艦隊は後に2隻が加わり9隻になった。幕府は艦隊を浦賀沖に戻すことを求めたが、ペリーは拒否した。1853年2月22日から浦賀湊の館浦に建てられた応接所において、アメリカの国書に対する回答をどこでするかについて交渉が始まった。ペリー側は江戸での回答を強く求め、江戸が無理ならば品川か川崎での回答を求めた。交渉は難航したが、2月27日、横浜村に決定した。幕府は当初、できるだけ戦争を避けながら、要求項目に対し具体的な回答をしないという方針であったが、3月4日、難破船の乗組員の救助と食料・水・薪の補給だけを認めることになり、通商の開始については海防参与の徳川斉昭の強い反対のため見送ることとなった[12]。
同年3月4日(2月6日)、幕府は武蔵国久良岐郡横浜村字駒形(神奈川県横浜市中区の神奈川県庁付近、現横浜開港資料館所在地)に応接所を設置し、約1か月にわたる協議の末、同年3月31日(3月3日)に全12箇条からなる日米和親条約を締結、調印した。日本側の実務担当者は、大学頭林復斎であった。
ペリーが英文版に署名すると、林は「我々は、外国語で書かれたいかなる文書にも署名することはできない」と言い、署名せずに英文版1通を返し、井戸覚弘(対馬守)、伊沢政義(美作守)、鵜殿長鋭(民部少輔)の応接掛3名の署名・花押のある日本語版1通を渡した。オランダ語版は通訳森山が署名した日本のものと通訳ポートマンが署名したアメリカのものが交換され、漢文版は通訳松崎満太郎の署名・花押のある日本のものと、通訳ウィリアムズが署名したアメリカのものが交換された。双方が同じ版に署名したものは1通もなかった。しかも、正文を何語にするかの交渉は、日米間で一度も行われず、条約にも正文に関する記載がまったくなかった[6]。
この条約の第11条は和文と英文では内容が異なっており、英文の第11条は開国以外の何物でもないが、和文の第11条では、幕府は開国したとは言えない。幕府側が譲歩したのは、下田、函館の2港の開港だけであり、開国に強く反対する勢力を抑えることができた[13]。この違いは後にハリスが赴任した際に大きな外交問題に発展した[14]。
その後、伊豆国下田(現静岡県下田市)の了仙寺へ交渉の場を移し、同年6月17日(5月22日)に和親条約の細則を定めた下田追加条約(下田条約)(全13箇条)を締結した。なお、ペリー艦隊は同年6月25日(6月1日)に下田を去り、帰路琉球へ立ち寄り、琉球王国とも通商条約を締結している。詳細は「琉米修好条約」を参照
1857年6月17日(安政4年5月26日)、アメリカ総領事のタウンゼント・ハリスと下田奉行の井上信濃守清直、中村出羽守時万の間で日米和親条約を修補する全9箇条の日米追加条約(下田協約)が締結された。 アメリカ国内での締結手続経緯は、以下のとおり[15]。
アメリカ国内
1854年3月31日 - 日本特派大使[16] ペリーが署名
1854年7月15日 - アメリカ合衆国上院(アメリカ合衆国第33議会
1854年8月7日 - フランクリン・ピアース大統領が批准を裁可
1855年2月21日 - 下田で批准書を交換
1855年6月22日 - 大統領が条約締結権行使を宣言
内容日米和親条約調印地
横浜市中区日本大通(横浜港開港広場)下田条約が締結され、暫定的なアメリカ人休息所として設定された了仙寺
日米和親条約では次のような内容が定められた[17]。
第1条
日米両国・両国民の間には、人・場所の例外なく、今後永久に和親が結ばれる。
第2条
下田(即時)と箱館(1年後)を開港する(条約港の設定)。この2港において薪水、食料、石炭、その他の必要な物資の供給を受けることができる。
物品の値段は日本役人がきめ、その支払いは金貨または銀貨で行う。
第3条
米国船舶が座礁または難破した場合、乗組員は下田または箱館に移送され、身柄の受け取りの米国人に引き渡される。
避難者の所有する物品はすべて返還され、救助と扶養の際に生じた出費の弁済の必要は無い(日本船が米国で遭難した場合も同じ)。