日米和親条約
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船内よりはるかに快適である」となっている[6]

老中首座の阿部正弘はオランダ商館からの報告書「別段風説書」を通じて、外国勢力が日本に迫ってくることを知っていた。1850年の別段風説書では、北太平洋で操業する捕鯨船主らのロビー活動によって、アメリカ議会で日本を開国しろという議論が起こっていること、1852年の報告では、翌年の春以降にアメリカの蒸気軍艦がペリーに率いられて江戸城にやってくることが報告されていた[10]。ペリー来航の予告情報は、1852年夏ごろ、阿部から有力譜代大名(彦根井伊家高松市会津松平家ほか)に知らされ、同年暮れには外様の雄藩である薩摩藩島津斉彬に知らされた。幕府内部でも秘密主義がとられ、通知は奉行レベルに止められたようで、浦賀奉行所の現場を担当する組頭与力には知らされなかった。また幕府はペリー来航の地を長崎か浦賀のいずれかと想定し、長崎を中心としていたオランダ通詞の配置を変え、浦賀奉行所の体制を強化した[6]

1853年7月8日嘉永6年)、フィルモア米大統領の命を受けたペリー提督は、5月26日琉球那覇沖に来航して6月6日首里城を訪問し、6月14日小笠原諸島父島を訪問した後、艦隊(日本では黒船と呼ばれた、蒸気外輪フリゲートのサスケハナ(旗艦)、ミシシッピ、帆走スループのプリマス、サラトガ)を率いて日本に来航、浦賀沖に現れた。ペリーは大統領の国書を渡すことが目的であることを伝えた。幕府は戦闘を避けながら(穏便専要)、艦隊の長崎回航を強く求めたが、ペリーが「要求を拒否するならば、強力な武力をもってアメリカ大統領の国書を渡すために上陸する」と回答したため、7月12日、明後日に久里浜で国書を受け取ることを、ペリーに伝えた。7月14日、ペリーは久里浜に上陸し、急ぎ設営された応接所で、大統領の開国・通商を求める親書およびペリーの信任状と書簡を手交した。幕府側の代表は浦賀奉行戸田氏栄であった。7月15日にはミシシッピ号を江戸湾奥深く侵入させ、幕府を驚愕させた。7月17日朝、ペリーは翌年の再来を予告して江戸湾を退去し琉球へ向かった。

アメリカの国書には、日本と国交を結ぶために使節を送ること、アメリカに侵略の意思がないこと、アメリカの国土が大西洋太平洋をまたいでいること、アメリカの蒸気船が18日で太平洋を越えて日本に至ることができること、日本が鎖国状態にあることは承知しているが、時勢に応じて方針を変更すべきであること、開国を直ちに行えない場合は、5年から10年の期間を限って実験的に開国することもできること、多くのアメリカ船がカリフォルニアから国に向けて出航していること、捕鯨船も日本近海に多く出漁していることが書かれてあり、難破船の乗組員の救出、アメリカ船への水・食料の補給、通商の開始という3つの具体的な要求項目が掲げられていた[11]

翌年の1854年2月13日(嘉永7年1月16日)、再び来航して7隻の艦船が江戸湾(東京湾)に侵入し横浜沖に停泊した。蒸気船はポーハタン号(旗艦)が加わり、3隻になっていた。艦隊は後に2隻が加わり9隻になった。幕府は艦隊を浦賀沖に戻すことを求めたが、ペリーは拒否した。1853年2月22日から浦賀湊の館浦に建てられた応接所において、アメリカの国書に対する回答をどこでするかについて交渉が始まった。ペリー側は江戸での回答を強く求め、江戸が無理ならば品川川崎での回答を求めた。交渉は難航したが、2月27日、横浜村に決定した。幕府は当初、できるだけ戦争を避けながら、要求項目に対し具体的な回答をしないという方針であったが、3月4日、難破船の乗組員の救助と食料・水・薪の補給だけを認めることになり、通商の開始については海防参与の徳川斉昭の強い反対のため見送ることとなった[12]

同年3月4日2月6日)、幕府は武蔵国久良岐郡横浜村字駒形(神奈川県横浜市中区神奈川県庁付近、現横浜開港資料館所在地)に応接所を設置し、約1か月にわたる協議の末、同年3月31日3月3日)に全12箇条からなる日米和親条約を締結、調印した。日本側の実務担当者は、大学頭林復斎であった。

ペリーが英文版に署名すると、林は「我々は、外国語で書かれたいかなる文書にも署名することはできない」と言い、署名せずに英文版1通を返し、井戸覚弘(対馬守)、伊沢政義(美作守)、鵜殿長鋭(民部少輔)の応接掛3名の署名・花押のある日本語版1通を渡した。オランダ語版は通訳森山が署名した日本のものと通訳ポートマンが署名したアメリカのものが交換され、漢文版は通訳松崎満太郎の署名・花押のある日本のものと、通訳ウィリアムズが署名したアメリカのものが交換された。双方が同じ版に署名したものは1通もなかった。しかも、正文を何語にするかの交渉は、日米間で一度も行われず、条約にも正文に関する記載がまったくなかった[6]

この条約の第11条は和文と英文では内容が異なっており、英文の第11条は開国以外の何物でもないが、和文の第11条では、幕府は開国したとは言えない。幕府側が譲歩したのは、下田、函館の2港の開港だけであり、開国に強く反対する勢力を抑えることができた[13]。この違いは後にハリスが赴任した際に大きな外交問題に発展した[14]

その後、伊豆国下田(現静岡県下田市)の了仙寺へ交渉の場を移し、同年6月17日5月22日)に和親条約の細則を定めた下田条約(全13箇条)を締結した。なお、ペリー艦隊は同年6月25日6月1日)に下田を去り、帰路琉球へ立ち寄り、琉球王国とも通商条約を締結している。詳細は「琉米修好条約」を参照

1857年6月17日安政4年5月26日)、アメリカ総領事のタウンゼント・ハリス下田奉行井上信濃守清直中村出羽守時万の間で日米和親条約を修補する全9箇条の下田協約(下田条約)が締結された。
アメリカ国内

アメリカ国内での締結手続経緯は、以下のとおり[15]

1854年3月31日 - 日本特派大使[16] ペリーが署名

1854年7月15日 - アメリカ合衆国上院(アメリカ合衆国第33議会(英語版))が批准に助言と同意

1854年8月7日 - フランクリン・ピアース大統領が批准を裁可

1855年2月21日 - 下田で批准書を交換

1855年6月22日 - 大統領が条約締結権行使を宣言

内容日米和親条約調印地
横浜市中区日本大通(横浜港開港広場)下田条約が締結され、暫定的なアメリカ人休息所として設定された了仙寺

日米和親条約では次のような内容が定められた[17]
第1条


日米両国・両国民の間には、人・場所の例外なく、今後永久に和親が結ばれる。

第2条


下田(即時)と箱館(1年後)を開港する(条約港の設定)。この2港において薪水、食料、石炭、その他の必要な物資の供給を受けることができる。

物品の値段は日本役人がきめ、その支払いは金貨または銀貨で行う。

第3条


米国船舶が座礁または難破した場合、乗組員は下田または箱館に移送され、身柄の受け取りの米国人に引き渡される。

避難者の所有する物品はすべて返還され、救助と扶養の際に生じた出費の弁済の必要は無い(日本船が米国で遭難した場合も同じ)。

第4条


米国人遭難者およびその他の市民は、他の国においてと同様に自由であり、日本においても監禁されることはないが、公正な法律には従う必要がある。


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