日米和親条約
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1845年4月17日、鳥島やその周辺海域で遭難した日本の漁師22人を救助したアメリカのマンハッタン号(英語版)が浦賀入港を許された。漂流民の受け渡しは長崎に限られていたが、例外処置として浦賀でも認められた[7]1846年7月、アメリカのビドル提督が帆船2隻で江戸湾に来航したが、ジョン・カルフーン国務長官の親書を渡すことができなかった[8]1849年4月、ジェームス・グリン艦長のプレブル号(英語版)1隻が長崎に来航し、交渉の末、オランダ商館経由でアメリカ漂流民14人[注釈 1] を引き取った。同年6月に発行された『チャイニーズ・リポジトリー』の記事では漂流民は日本の役人に12か月にわたってひどく野蛮な扱いを受けたとされている[9]が、アメリカ海軍省が議会に提出した尋問調書では、「捕鯨船内より、長崎の半年間のほうが待遇ははるかに良かった。食べ物は十分にあり、衣類も冬物と夏物の両方をもらい、屋敷牢はかなり自由で、運動も十分にできた。船内よりはるかに快適である」となっている[6]

老中首座の阿部正弘はオランダ商館からの報告書「別段風説書」を通じて、外国勢力が日本に迫ってくることを知っていた。1850年の別段風説書では、北太平洋で操業する捕鯨船主らのロビー活動によって、アメリカ議会で日本を開国しろという議論が起こっていること、1852年の報告では、翌年の春以降にアメリカの蒸気軍艦がペリーに率いられて江戸城にやってくることが報告されていた[10]。ペリー来航の予告情報は、1852年夏ごろ、阿部から有力譜代大名(彦根井伊家高松市会津松平家ほか)に知らされ、同年暮れには外様の雄藩である薩摩藩島津斉彬に知らされた。幕府内部でも秘密主義がとられ、通知は奉行レベルに止められたようで、浦賀奉行所の現場を担当する組頭与力には知らされなかった。また幕府はペリー来航の地を長崎か浦賀のいずれかと想定し、長崎を中心としていたオランダ通詞の配置を変え、浦賀奉行所の体制を強化した[6]

1853年7月8日嘉永6年)、フィルモア米大統領の命を受けたペリー提督は、5月26日琉球那覇沖に来航して6月6日首里城を訪問し、6月14日小笠原諸島父島を訪問した後、艦隊(日本では黒船と呼ばれた、蒸気外輪フリゲートのサスケハナ(旗艦)、ミシシッピ、帆走スループのプリマス、サラトガ)を率いて日本に来航、浦賀沖に現れた。ペリーは大統領の国書を渡すことが目的であることを伝えた。幕府は戦闘を避けながら(穏便専要)、艦隊の長崎回航を強く求めたが、ペリーが「要求を拒否するならば、強力な武力をもってアメリカ大統領の国書を渡すために上陸する」と回答したため、7月12日、明後日に久里浜で国書を受け取ることを、ペリーに伝えた。7月14日、ペリーは久里浜に上陸し、急ぎ設営された応接所で、大統領の開国・通商を求める親書およびペリーの信任状と書簡を手交した。幕府側の代表は浦賀奉行戸田氏栄であった。7月15日にはミシシッピ号を江戸湾奥深く侵入させ、幕府を驚愕させた。7月17日朝、ペリーは翌年の再来を予告して江戸湾を退去し琉球へ向かった。

アメリカの国書には、日本と国交を結ぶために使節を送ること、アメリカに侵略の意思がないこと、アメリカの国土が大西洋太平洋をまたいでいること、アメリカの蒸気船が18日で太平洋を越えて日本に至ることができること、日本が鎖国状態にあることは承知しているが、時勢に応じて方針を変更すべきであること、開国を直ちに行えない場合は、5年から10年の期間を限って実験的に開国することもできること、多くのアメリカ船がカリフォルニアから国に向けて出航していること、捕鯨船も日本近海に多く出漁していることが書かれてあり、難破船の乗組員の救出、アメリカ船への水・食料の補給、通商の開始という3つの具体的な要求項目が掲げられていた[11]

翌年の1854年2月13日(嘉永7年1月16日)、再び来航して7隻の艦船が江戸湾(東京湾)に侵入し横浜沖に停泊した。


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