日米修好通商条約
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アメリカ国内での締結手続経緯は、以下のとおり[3]

1858年7月29日 - ハリスが署名

1858年12月15日 - アメリカ合衆国上院(アメリカ合衆国第34議会(英語版))が批准に助言と同意

1860年4月12日 - ジェームズ・ブキャナン大統領が批准を裁可

1860年5月22日 - ワシントンで批准書を交換

1860年5月23日 - 大統領が条約締結権行使を宣言

内容

ハリスとの交渉に先立ち、幕府はオランダとの間で日蘭追加条約を結び、貿易規制の緩和を認めていた。ロシアとの間にも同様の追加条約を結んでいた。幕府はアメリカとの交渉もこれを基に行う考えであったが、ハリスの目的は自由貿易であり、日本側にイニシアチブを取られないよう、条約草案を作成・提出した[17]。この草案を基に15回の交渉が行われ、内容が妥結した[18]。日米修好通商条約の内容は以下の通りである[19]。一方でアメリカだけ有利ではなく英仏艦隊の来航の可能性と阿片禍の危機についても説いている。[20]

第1条

今後日本とアメリカは友好関係を維持する。

日本政府はワシントンに外交官をおき、また各港に領事をおくことができる。外交官・領事は自由にアメリカ国内を旅行できる。

合衆国大統領は、江戸に公使を派遣し、各貿易港に領事を任命する。公使・総領事が公務のために日本国内を旅行するための免許を与える。

第2条

日本とヨーロッパの国の間に問題が生じたときは、アメリカ大統領がこれを仲裁する。

日本船に対し航海中のアメリカの軍艦はこれに便宜を図る。またアメリカ領事が居住する貿易港に日本船が入港する場合は、その国の規定に応じてこれに便宜を図る。
錦絵『新潟湊之真景』安政6年(1859年)井上文昌筆(新潟県立図書館蔵)

第3条

下田・箱館に加え、次の場所を開港・開市する。[注釈 2]

神奈川1859年7月4日(安政6年6月5日

長崎:1859年7月4日(安政6年6月5日)

新潟1860年1月1日(安政6年12月9日

兵庫1863年1月1日(文久2年11月12日


もし新潟の開港が難しい場合は近くの別の一港を開く。

神奈川開港の6か月後に下田は閉鎖する。

これら開港地に、アメリカ人は居留を許され、土地を借り、建物・倉庫を購入・建築可能である。ただし、要害となるような建築物は許されない。このため、新築・改装の際には日本の役人がこれを検分できる。

アメリカ人が居留できる場所(外国人居留地)に関しては、領事と同地の役人がその決定を主なう。両者にて決定が困難な場合は、日本政府と公使の討議によって解決する。居留地の周囲に囲い等を作ることなく、出入りを自由とする。

江戸1862年1月1日(文久元年12月2日)開市

大坂:1863年1月1日(文久2年11月12日)開市


江戸と大坂の二か所には商取引のための滞在(逗留)は可能であるが、居留は認められない。

両国の商人は自由に取引ができる。役人が介入することはない。

日本人はアメリカ製品を自由に売買し、かつ所持できる。

軍需品は日本政府以外に売ってはならない。ただし、日本国内において他の外国に軍需品を売ることは可能である。

米・麦は船舶乗組員の食用としては販売するが、積荷として輸出することは許されない。

日本産の銅は、余剰がある場合にのみ、日本政府入札品の支払代金として輸出可能である。

在留アメリカ人は、日本人を雇用することができる。

第4条

輸出入品は、全て日本の税関(運上所)を通すこと。

荷主の申請に虚偽の疑いがある場合は、税関が適当な額を提示してその荷の買取を申し出ることができる。荷主はその値段で売るか、あるいは提示金額に該当する関税を支払う。

アメリカ海軍の装備品を神奈川・長崎・箱館の倉庫に保管する場合は、荷揚げ時点で税金を支払う必要はない。ただし、それらを売る場合には所定の関税を支払う。

アヘンの輸入は禁止する。もしアメリカ商船が三斤以上を持ってきた場合は、超過分は没収する。

一旦関税を支払った輸入品に関しては、日本国内の他の場所に移送した場合に追加の税金をかけてはならない。

アメリカ人が輸入する荷物には、この条約で定められた以外の関税がかけられることはない。

第5条

外国通貨と日本通貨は同種・同量での通用する。すなわち、金は金と、銀は銀と交換できる。

取引は日本通貨、外国通貨どちらでも行うことができる。

日本人が外国通貨になれていないため、開港後1年の間は原則として日本の通貨で取引を行う。(したがって両替を認める)

日本貨幣は銅銭を除き輸出することができる。外国の通貨も輸出可能である。

第6条

日本人に対し犯罪を犯したアメリカ人は、領事裁判所にてアメリカの国内法に従って裁かれる。アメリカ人に対して犯罪を犯した日本人は、日本の法律によって裁かれる。

判決に不満がある場合、アメリカ領事館は日本人の上告を、日本の役所はアメリカ人の上告を受け付ける。

両国の役人は商取引に介入しない。

第7条

開港地において、アメリカ人は以下の範囲で外出できる。

神奈川:東は六郷川(多摩川)まで、その他は10里。

箱館:おおむね十里四方。

兵庫:京都から10里以内に入ってはならない。他の方向へは10里。かつ兵庫に来航する船舶の乗組員は、猪名川から湾までの川筋を越えてはならない。

長崎:周辺の天領。

新潟:後日決定。


ただし、罪を犯したものは居留地から1里以上離れてはならない。

第8条

アメリカ人は宗教の自由を認められ、居留地内に教会を作っても良い。

アメリカ人は日本の神社・仏閣等を毀損してはならない。

宗教論争はおこなってはならない。

長崎での踏み絵は廃止する。

第9条

居留地を脱走したり、裁判から逃げたりしたアメリカ人に対し、アメリカ領事は日本の役人にその逮捕・勾留を依頼することができる。また領事が逮捕した罪人を、日本の獄舎での勾留を求めることができる。

アメリカ領事は、居留・来航したアメリカ人に対し、日本の法律を遵守させるように努める。

日本の獄舎にアメリカ人を勾留した場合は、その費用は領事館が支払う。

第10条

日本政府は、軍艦、蒸気船、商船、捕鯨船、漁船、大砲、兵器の類を購入し、または作製を依頼するため、アメリカ人を自由に雇用できる。学者、法律家、職人、船員の雇用も自由である。

日本政府がアメリカへ注文した物品は、速やかに日本に送付する。

アメリカの友好国と日本の間に戦争が起こった場合は、軍用品は輸出せずまた軍事顧問の雇用も認めない。

第11条

附則である貿易章程も、本条約同様に両国民が遵守しなければならない。

第12条

日米和親条約および下田協約の内容で、この条約の内容と異なる部分に関しては、この条約によって置き換えられる。

第13条

条約内容は1872年7月4日に必要に応じて見直す。その場合には1年前に通達を行う。

第14条

本条約は1859年7月4日より有効である。

条約批准のために日本使節団がワシントンを訪問するが、何らかの理由で批准が遅れた場合でも、条約は指定日から有効となる。

条約文は、日本語、英語、オランダ語にて作成し、その内容は同一であるが、オランダ語を原文とみなす。

本条約を1858年7月29日に江戸にて調印する。

自由貿易

自由貿易は第3条で定められているが、ハリスにとっては最重要の項目であった。草案では専売制度や倹約令の撤廃も求めていた(何れも内政干渉に近いとされたためか、条約には含まれなかった)。幕府は急激な貿易の拡大は国内の混乱を招くとして、日蘭追加条約に準じた内容を希望したが、ハリスはこれを拒否し、最終的には幕府も自由貿易を認めた。幕府側からの希望で、軍需品は幕府にのみ販売すること、日本からの米・麦の輸出は行わないこと、銅は余剰がある場合に幕府の支払いとしてのみ輸出できることが加えられた。第4条では阿片の禁輸が定められているが、これはハリスの方から申し入れたものである[21]
開港場

草案では、候補地として、箱館、大坂、長崎、平戸、京都、江戸、品川、日本海側の2港、九州の炭鉱付近に1港となっていた。これに対し、幕府全権の岩瀬忠震は横浜の開港を主張し、大坂の開港に反対した。大坂が開港すると経済の中心が完全に大坂に移り、江戸の経済的地位が低下するというのが理由であった。ハリスは品川は遠浅で貿易港に適しないことを理解し、横浜開港に同意した。しかし、江戸・大坂の大都市を開港することを強く要求したため、商取引のための滞在のみを許すということで同意された。大坂の外港として兵庫が開かれることとなった。平戸は小さすぎ、また長崎近郊に炭鉱が発見されていたため、九州の開港場は長崎のみとなった。日本海側はとりあえず新潟が選ばれた。ただし、幕府は新潟、兵庫、江戸、大坂は後に開くことを主張し、認められた[22]

なお、幕府側の開港予定地は横浜であったが、交渉の過程で神奈川・横浜となり、条約には神奈川のみが記載された[23]。実際に開港したのは横浜[注釈 3]のみであったため、条約を結んだ各国から批判もされたが、幕府は横浜を神奈川の一部と主張した。結局幕府は領事館を神奈川に設置することを認めたが、実務上は横浜の方が有利であり、早いうちに各国領事館は横浜に移動した。また兵庫ではなく神戸が開港している。
居留地

草案では、アメリカ人は日本人と雑居できることとなっていた。しかし幕府側は外国人の居留を一箇所にまとめることを主張し、ハリスは「出島のようにならないこと」を条件に居留地の設定を了承した。草案では1年以上日本に滞在したアメリカ人は、領事の許可があれば商取引のために日本国内を自由に旅行できるとなっていたが、幕府はこれを拒否した[24]。第7条で「遊歩規定」が設けられ、一般人が日本国内を自由に旅行することや居留地外で商取引をすることが禁じられた[25]


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