日米修好通商条約
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実際に開港したのは横浜[注釈 3]のみであったため、条約を結んだ各国から批判もされたが、幕府は横浜を神奈川の一部と主張した。結局幕府は領事館を神奈川に設置することを認めたが、実務上は横浜の方が有利であり、早いうちに各国領事館は横浜に移動した。また兵庫ではなく神戸が開港している。
居留地

草案では、アメリカ人は日本人と雑居できることとなっていた。しかし幕府側は外国人の居留を一箇所にまとめることを主張し、ハリスは「出島のようにならないこと」を条件に居留地の設定を了承した。草案では1年以上日本に滞在したアメリカ人は、領事の許可があれば商取引のために日本国内を自由に旅行できるとなっていたが、幕府はこれを拒否した[24]。第7条で「遊歩規定」が設けられ、一般人が日本国内を自由に旅行することや居留地外で商取引をすることが禁じられた[25]
宗教

第8条の宗教に関する規定は、ハリスの草案のまま決定された[26]
領事裁判権

第6条の領事裁判権に関しては下田協約ですでに幕府が認めており、これもあっさりと合意した[27]
関税率

関税率は本文ではなく附則である貿易章程で決められている。当時日本側に関税自主権という概念がなかったため、関税率の設定だけが問題となった。幕府側は輸出税・輸入税を12.5%とすることを提案し、ハリスは輸出税は無し、輸入税は20%(一部商品は例外として、0%、10%、35%)を提案した。最終的に、輸出税を5%とし、一部輸入税を10%から5%とすることで合意した。ただし、ハリスは輸出税を認める代わりに草案にあった双務的な最恵国待遇を撤回した[28]
金銀等価交換

第5条で、両国貨幣の金銀等価交換が認められている。当時の日本の銀貨である一分銀は貴金属としての価値を基にしたものではなく、幕府の信用による表記貨幣であった。このため、日本の金銀比価1に対し4.65であり諸外国の相場(金1対銀15.3)に比べて銀の価値が高かった。幕府は下田協約の交渉過程で金貨基準の貨幣の交換を主張したが、ハリスは当時のアジア貿易で一般的であった銀貨基準(洋銀)の交換を主張して押し切っていた。ただし、草案には日本通貨の輸出禁止が含まれていた。しかしながら、幕府は洋銀と一分銀の交換を嫌い、交渉の過程で外国通貨の国内流通を提案した。ハリスもこれには同意したものの、日本商人が外国通貨に慣れるまでの1年間は日本通貨との交換を認めるように要求した。幕府はこれに合意し、かつ日本通貨の輸出を認めた[29]。結果として金の流出やインフレーションによる経済の混乱を引き起こすこととなった(幕末の通貨問題)。幕府は貿易専用通貨である安政二朱銀の発行により金の流出を回避する予定であったが、条約違反と非難され安政二朱銀の通用は僅か22日間で停止されている。この問題は万延小判が発行され、国内の金銀比価が国際水準となるまで約1年間続いた。
片務的最恵国待遇

日米和親条約で定められたアメリカに対する片務的最恵国待遇は、第12条によってそのまま継続された。上述のようにハリスは双務的な最恵国待遇を提案したものの、輸出税を認める代わりに撤回している。また鎖国政策をできるだけ維持し一般の日本人に対しては自由な海外渡航を認める考えがなかった幕府側から断ったとする説もある[30]
影響明治初年の神戸外国人居留地

この条約により、日本は、アメリカ人はじめ国内在住の欧米人に対して主権がおよばず、外国人居留地制度が設けられ、自国産業を充分に保護することもできず、また関税収入によって国庫を潤すこともできなかった。とくに慶応2年5月(1866年6月)の改税約書以降は、輸入品は低関税で日本に流入するのに対し、日本品の輸出は開港場に居留する外国商人の手によっておこなわれ、外国商人は日本の法律の外にありながら日本の貿易を左右することができたのであり[31]、そのうえ、こうした不平等な条項を撤廃するためには一国との交渉だけではなく、最恵国待遇を承認した他の国々すべての同意を必要とした[32]

本条約の不平等的な性格は日本の主権を侵害し、経済的にも国内産業の保護育成の大きな障害となった。裏返せば、自由貿易により外国の物品を安く購入することが可能となり、明治の近代化に寄与したとも考えられる。また、アヘンについては完全に水際で防ぐことができて清のような深刻な国家破綻になることはなかった。明治維新後、新政府は条約改正を外交上の最優先課題として外国との交渉を進めるいっぽう、国内法制の整備、秩序の安定化、軍備の強化等に取り組んだ[33]
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 1940年(昭和15年)1月26日に失効した。
^ 下田・箱館は日米和親条約の際にすでに開港場に指定されていた。
^ 条約の規定よりも早い1859年7月1日(安政6年6月2日)に開港された。

出典^ a b c 条約14条
^ https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1445233/26
^ a b c “United States Treaties and International Agreements: 1776-1949 Volume9 pp.362-372” (PDF). アメリカ議会図書館 (1972年3月). 2020年5月6日閲覧。
^『銀印「経文緯武」の報道について』平成30年8月、公益財団法人コ川記念財団
^ 坂田精一『ハリス』日本歴史学会1996年、pp.234-245
^ 鵜飼政志『明治維新の国際舞台』有志舎2014年、pp.62-63
^ 関良基『日本を開国させた男、松平忠固』作品社2020年、pp.149-165
^ 関良基『日本を開国させた男、松平忠固』作品社2020年、pp.169-175
^ 関良基『日本を開国させた男、松平忠固』作品社2020年、pp.227-239
^ 渡辺(2011)
^ 鵜飼政志『明治維新の国際舞台』有志舎2014年、p.60
^ 1997年6月30日文部省告示第131号「文化財を重要文化財に指定する件」
^ 中根『昨夢紀事 4』p.192-193
^ 徳富蘇峰『近世日本国民史 井伊直弼』p.253
^ 石井『日本開国史』p.339
^ 徳富蘇峰『近世日本国民史 井伊直弼』p.252-253
^ 石井『日本開国史』p.259
^ 石井『日本開国史』p.260
^ 日米修好通商条約(小さな資料室)
^ “文化遺産データベース”. 2024年3月13日閲覧。
^ 石井『日本開国史』p.261-265
^ 石井『日本開国史』p.265-268


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