第4条
輸出入品は、全て日本の税関(運上所)を通すこと。
荷主の申請に虚偽の疑いがある場合は、税関が適当な額を提示してその荷の買取を申し出ることができる。荷主はその値段で売るか、あるいは提示金額に該当する関税を支払う。
アメリカ海軍の装備品を神奈川・長崎・箱館の倉庫に保管する場合は、荷揚げ時点で税金を支払う必要はない。ただし、それらを売る場合には所定の関税を支払う。
アヘンの輸入は禁止する。もしアメリカ商船が三斤以上を持ってきた場合は、超過分は没収する。
一旦関税を支払った輸入品に関しては、日本国内の他の場所に移送した場合に追加の税金をかけてはならない。
アメリカ人が輸入する荷物には、この条約で定められた以外の関税がかけられることはない。
第5条
外国通貨と日本通貨は同種・同量での通用する。すなわち、金は金と、銀は銀と交換できる。
取引は日本通貨、外国通貨どちらでも行うことができる。
日本人が外国通貨になれていないため、開港後1年の間は原則として日本の通貨で取引を行う。(したがって両替を認める)
日本貨幣は銅銭を除き輸出することができる。外国の通貨も輸出可能である。
第6条
日本人に対し犯罪を犯したアメリカ人は、領事裁判所にてアメリカの国内法に従って裁かれる。アメリカ人に対して犯罪を犯した日本人は、日本の法律によって裁かれる。
判決に不満がある場合、アメリカ領事館は日本人の上告を、日本の役所はアメリカ人の上告を受け付ける。
両国の役人は商取引に介入しない。
第7条
開港地において、アメリカ人は以下の範囲で外出できる。
神奈川:東は六郷川(多摩川)まで、その他は10里。
箱館:おおむね十里四方。
兵庫:京都から10里以内に入ってはならない。他の方向へは10里。かつ兵庫に来航する船舶の乗組員は、猪名川から湾までの川筋を越えてはならない。
長崎:周辺の天領。
新潟:後日決定。
ただし、罪を犯したものは居留地から1里以上離れてはならない。
第8条
アメリカ人は宗教の自由を認められ、居留地内に教会を作っても良い。
アメリカ人は日本の神社・仏閣等を毀損してはならない。
宗教論争はおこなってはならない。
長崎での踏み絵は廃止する。
第9条
居留地を脱走したり、裁判から逃げたりしたアメリカ人に対し、アメリカ領事は日本の役人にその逮捕・勾留を依頼することができる。また領事が逮捕した罪人を、日本の獄舎での勾留を求めることができる。
アメリカ領事は、居留・来航したアメリカ人に対し、日本の法律を遵守させるように努める。
日本の獄舎にアメリカ人を勾留した場合は、その費用は領事館が支払う。
第10条
日本政府は、軍艦、蒸気船、商船、捕鯨船、漁船、大砲、兵器の類を購入し、または作製を依頼するため、アメリカ人を自由に雇用できる。学者、法律家、職人、船員の雇用も自由である。
日本政府がアメリカへ注文した物品は、速やかに日本に送付する。
アメリカの友好国と日本の間に戦争が起こった場合は、軍用品は輸出せずまた軍事顧問の雇用も認めない。
第11条
附則である貿易章程も、本条約同様に両国民が遵守しなければならない。
第12条
日米和親条約および下田協約の内容で、この条約の内容と異なる部分に関しては、この条約によって置き換えられる。
第13条
条約内容は1872年7月4日に必要に応じて見直す。その場合には1年前に通達を行う。
第14条 自由貿易は第3条で定められているが、ハリスにとっては最重要の項目であった。草案では専売制度や倹約令の撤廃も求めていた(何れも内政干渉に近いとされたためか、条約には含まれなかった)。幕府は急激な貿易の拡大は国内の混乱を招くとして、日蘭追加条約に準じた内容を希望したが、ハリスはこれを拒否し、最終的には幕府も自由貿易を認めた。幕府側からの希望で、軍需品は幕府にのみ販売すること、日本からの米・麦の輸出は行わないこと、銅は余剰がある場合に幕府の支払いとしてのみ輸出できることが加えられた。第4条では阿片の禁輸が定められているが、これはハリスの方から申し入れたものである[21]。 草案では、候補地として、箱館、大坂、長崎、平戸、京都、江戸、品川、日本海側の2港、九州の炭鉱付近に1港となっていた。これに対し、幕府全権の岩瀬忠震は横浜の開港を主張し、大坂の開港に反対した。大坂が開港すると経済の中心が完全に大坂に移り、江戸の経済的地位が低下するというのが理由であった。ハリスは品川は遠浅で貿易港に適しないことを理解し、横浜開港に同意した。しかし、江戸・大坂の大都市を開港することを強く要求したため、商取引のための滞在のみを許すということで同意された。大坂の外港として兵庫が開かれることとなった。平戸は小さすぎ、また長崎近郊に炭鉱が発見されていたため、九州の開港場は長崎のみとなった。日本海側はとりあえず新潟が選ばれた。ただし、幕府は新潟、兵庫、江戸、大坂は後に開くことを主張し、認められた[22]。 なお、幕府側の開港予定地は横浜であったが、交渉の過程で神奈川・横浜となり、条約には神奈川のみが記載された[23]。実際に開港したのは横浜[注釈 3]のみであったため、条約を結んだ各国から批判もされたが、幕府は横浜を神奈川の一部と主張した。結局幕府は領事館を神奈川に設置することを認めたが、実務上は横浜の方が有利であり、早いうちに各国領事館は横浜に移動した。また兵庫ではなく神戸が開港している。 草案では、アメリカ人は日本人と雑居できることとなっていた。しかし幕府側は外国人の居留を一箇所にまとめることを主張し、ハリスは「出島のようにならないこと」を条件に居留地の設定を了承した。草案では1年以上日本に滞在したアメリカ人は、領事の許可があれば商取引のために日本国内を自由に旅行できるとなっていたが、幕府はこれを拒否した[24]。第7条で「遊歩規定」が設けられ、一般人が日本国内を自由に旅行することや居留地外で商取引をすることが禁じられた[25]。 第8条の宗教に関する規定は、ハリスの草案のまま決定された[26]。 第6条の領事裁判権に関しては下田協約ですでに幕府が認めており、これもあっさりと合意した[27]。 関税率は本文ではなく附則である貿易章程で決められている。当時日本側に関税自主権という概念がなかったため、関税率の設定だけが問題となった。幕府側は輸出税・輸入税を12.5%とすることを提案し、ハリスは輸出税は無し、輸入税は20%(一部商品は例外として、0%、10%、35%)を提案した。最終的に、輸出税を5%とし、一部輸入税を10%から5%とすることで合意した。ただし、ハリスは輸出税を認める代わりに草案にあった双務的な最恵国待遇を撤回した[28]。 第5条で、両国貨幣の金銀等価交換が認められている。当時の日本の銀貨である一分銀は貴金属としての価値を基にしたものではなく、幕府の信用による表記貨幣であった。このため、日本の金銀比価は金1に対し銀4.65であり諸外国の相場(金1対銀15.3)に比べて銀の価値が高かった。幕府は下田協約の交渉過程で金貨基準の貨幣の交換を主張したが、ハリスは当時のアジア貿易で一般的であった銀貨基準(洋銀)の交換を主張して押し切っていた。ただし、草案には日本通貨の輸出禁止が含まれていた。しかしながら、幕府は洋銀と一分銀の交換を嫌い、交渉の過程で外国通貨の国内流通を提案した。ハリスもこれには同意したものの、日本商人が外国通貨に慣れるまでの1年間は日本通貨との交換を認めるように要求した。幕府はこれに合意し、かつ日本通貨の輸出を認めた[29]。結果として金の流出やインフレーションによる経済の混乱を引き起こすこととなった(幕末の通貨問題)。幕府は貿易専用通貨である安政二朱銀の発行により金の流出を回避する予定であったが、条約違反と非難され安政二朱銀の通用は僅か22日間で停止されている。この問題は万延小判が発行され、国内の金銀比価が国際水準となるまで約1年間続いた。
本条約は1859年7月4日より有効である。
条約批准のために日本使節団がワシントンを訪問するが、何らかの理由で批准が遅れた場合でも、条約は指定日から有効となる。
条約文は、日本語、英語、オランダ語にて作成し、その内容は同一であるが、オランダ語を原文とみなす。
本条約を1858年7月29日に江戸にて調印する。
自由貿易
開港場
居留地
宗教
領事裁判権
関税率
金銀等価交換
片務的最恵国待遇
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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