日米修好通商条約
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直弼はなおも「勅許を得るまで調印を延期するよう努力せよ」と指示したが、交渉担当の井上清直が「已むを得ない際は調印しても良いか」と質問、直弼は「その際は致し方も無いが、なるたけ尽力せよ(已むを得ざれば、是非に及ばず)[14]」と答え、列強から侵略戦争を仕掛けられる最悪の事態に至るよりは、勅許をまたずに調印することも可とした[15]米国海軍の外輪フリゲート艦・USS ポーハタン号

その閣議の後、清直・忠震の両名が神奈川沖・小柴(八景島周辺)のUSS ポーハタン号に赴き、艦上で条約調印に踏み切った。アメリカ側の全権はハリスであった。この際、停泊中の艦隊各艦から、定期外号砲を何度も撃ち鳴らして井上たちを脅かした上、ハリスから、天津条約調印のために清国に展開中の英仏艦隊が、近日中に日本にむけて出航準備中であるから、すぐにでも米国と条約を結ばなければ日本は英仏両国に占領されるであろう、とブラフをかけられたという。実際には、英仏両国艦の清国出発は1ヶ月後を予定しており、再度朝意を伺うのに十分な期間があったことになる。事実、ハリスは未だ在香港中の英仏両国国使に手紙を出して、両国使の訪日に先立って米国が日本との条約に漕ぎつけたことを自慢している。[16]

条約調印の4日後、正睦と忠固は老中を罷免された。正睦はこれまで朝意の賛同を得ることのできなかった失策により、忠固は条約締結にあたり朝意を全く意に介さなかったことが責に問われた。清直、忠震も、違勅の責めを負い、しばらくして左遷されている。幕府使節団を迎えるジェームズ・ブキャナン大統領

この後、日米修好通商条約の批准書を交換するために、万延元年(1860年)に正使新見正興、副使村垣範正、監察小栗忠順を代表とする万延元年遣米使節がポーハタン号でアメリカに派遣され、その護衛の名目で木村喜毅を副使として咸臨丸も派遣された。咸臨丸には勝海舟が艦長格として乗船し、木村の従者として福澤諭吉も渡米した。しかし条約締結は日本に大規模な政争を引き起こし、勅許の無いまま締結したことと同時期に問題となっていた将軍継嗣問題などが絡まり、直弼は派閥抗争鎮定のため反対派の幕臣や志士、朝廷の公家衆を大量に処罰(安政の大獄)、正睦や忠固、清直・忠震など条約関係者を排除した。結果、政局は不穏となり使節団のアメリカ訪問中に桜田門外の変が発生、直弼は暗殺され幕府の威信は低下した。

朝廷は直弼暗殺後も一向にこれらの条約を認めず、尊王攘夷運動においては条約の廃棄が要求された(破約攘夷論)。幕府も国内情勢の困難さから、開市・開港の延期(ロンドン覚書)や、再鎖港を求める外交交渉(横浜鎖港談判使節団)に尽力せざるを得なかった。しかし、アメリカ・イギリス・フランス・オランダの四カ国艦隊が兵庫沖に侵入して条約勅許を強硬に要求するに至り(兵庫開港要求事件を参照)、慶応元年9月16日(1865年11月4日)にこれを勅許した。この時、朝廷は兵庫開港は行わない旨の留保を付けたが、第15代将軍・徳川慶喜の圧力のもと慶応3年5月にはこれも勅許され、日本の開国体制への本格的な移行が確定した。

大政奉還後の明治元年1月15日(1868年2月8日)、朝廷(新政府)は列国公使に対して王政復古に伴って従来の条約は「大君(=将軍)」を「天皇」と読み替えた上で引続き有効である旨を通告し、日米修好通商条約を含めた旧幕府の締結した条約がそのまま継続されることとなった。
アメリカ国内

アメリカ国内での締結手続経緯は、以下のとおり[3]

1858年7月29日 - ハリスが署名

1858年12月15日 - アメリカ合衆国上院(アメリカ合衆国第34議会(英語版))が批准に助言と同意

1860年4月12日 - ジェームズ・ブキャナン大統領が批准を裁可

1860年5月22日 - ワシントンで批准書を交換

1860年5月23日 - 大統領が条約締結権行使を宣言

内容

ハリスとの交渉に先立ち、幕府はオランダとの間で日蘭追加条約を結び、貿易規制の緩和を認めていた。ロシアとの間にも同様の追加条約を結んでいた。幕府はアメリカとの交渉もこれを基に行う考えであったが、ハリスの目的は自由貿易であり、日本側にイニシアチブを取られないよう、条約草案を作成・提出した[17]。この草案を基に15回の交渉が行われ、内容が妥結した[18]。日米修好通商条約の内容は以下の通りである[19]。一方でアメリカだけ有利ではなく英仏艦隊の来航の可能性と阿片禍の危機についても説いている。[20]

第1条

今後日本とアメリカは友好関係を維持する。

日本政府はワシントンに外交官をおき、また各港に領事をおくことができる。外交官・領事は自由にアメリカ国内を旅行できる。

合衆国大統領は、江戸に公使を派遣し、各貿易港に領事を任命する。公使・総領事が公務のために日本国内を旅行するための免許を与える。

第2条

日本とヨーロッパの国の間に問題が生じたときは、アメリカ大統領がこれを仲裁する。

日本船に対し航海中のアメリカの軍艦はこれに便宜を図る。またアメリカ領事が居住する貿易港に日本船が入港する場合は、その国の規定に応じてこれに便宜を図る。
錦絵『新潟湊之真景』安政6年(1859年)井上文昌筆(新潟県立図書館蔵)

第3条

下田・箱館に加え、次の場所を開港・開市する。[注釈 2]

神奈川1859年7月4日(安政6年6月5日

長崎:1859年7月4日(安政6年6月5日)

新潟1860年1月1日(安政6年12月9日

兵庫1863年1月1日(文久2年11月12日


もし新潟の開港が難しい場合は近くの別の一港を開く。

神奈川開港の6か月後に下田は閉鎖する。

これら開港地に、アメリカ人は居留を許され、土地を借り、建物・倉庫を購入・建築可能である。ただし、要害となるような建築物は許されない。このため、新築・改装の際には日本の役人がこれを検分できる。

アメリカ人が居留できる場所(外国人居留地)に関しては、領事と同地の役人がその決定を主なう。両者にて決定が困難な場合は、日本政府と公使の討議によって解決する。居留地の周囲に囲い等を作ることなく、出入りを自由とする。

江戸1862年1月1日(文久元年12月2日)開市

大坂:1863年1月1日(文久2年11月12日)開市


江戸と大坂の二か所には商取引のための滞在(逗留)は可能であるが、居留は認められない。

両国の商人は自由に取引ができる。役人が介入することはない。

日本人はアメリカ製品を自由に売買し、かつ所持できる。

軍需品は日本政府以外に売ってはならない。ただし、日本国内において他の外国に軍需品を売ることは可能である。

米・麦は船舶乗組員の食用としては販売するが、積荷として輸出することは許されない。

日本産の銅は、余剰がある場合にのみ、日本政府入札品の支払代金として輸出可能である。

在留アメリカ人は、日本人を雇用することができる。

第4条

輸出入品は、全て日本の税関(運上所)を通すこと。

荷主の申請に虚偽の疑いがある場合は、税関が適当な額を提示してその荷の買取を申し出ることができる。荷主はその値段で売るか、あるいは提示金額に該当する関税を支払う。

アメリカ海軍の装備品を神奈川・長崎・箱館の倉庫に保管する場合は、荷揚げ時点で税金を支払う必要はない。ただし、それらを売る場合には所定の関税を支払う。

アヘンの輸入は禁止する。もしアメリカ商船が三斤以上を持ってきた場合は、超過分は没収する。

一旦関税を支払った輸入品に関しては、日本国内の他の場所に移送した場合に追加の税金をかけてはならない。

アメリカ人が輸入する荷物には、この条約で定められた以外の関税がかけられることはない。

第5条

外国通貨と日本通貨は同種・同量での通用する。すなわち、金は金と、銀は銀と交換できる。

取引は日本通貨、外国通貨どちらでも行うことができる。

日本人が外国通貨になれていないため、開港後1年の間は原則として日本の通貨で取引を行う。(したがって両替を認める)

日本貨幣は銅銭を除き輸出することができる。外国の通貨も輸出可能である。

第6条

日本人に対し犯罪を犯したアメリカ人は、領事裁判所にてアメリカの国内法に従って裁かれる。アメリカ人に対して犯罪を犯した日本人は、日本の法律によって裁かれる。

判決に不満がある場合、アメリカ領事館は日本人の上告を、日本の役所はアメリカ人の上告を受け付ける。

両国の役人は商取引に介入しない。

第7条

開港地において、アメリカ人は以下の範囲で外出できる。

神奈川:東は六郷川(多摩川)まで、その他は10里。

箱館:おおむね十里四方。

兵庫:京都から10里以内に入ってはならない。他の方向へは10里。かつ兵庫に来航する船舶の乗組員は、猪名川から湾までの川筋を越えてはならない。

長崎:周辺の天領。

新潟:後日決定。


ただし、罪を犯したものは居留地から1里以上離れてはならない。

第8条

アメリカ人は宗教の自由を認められ、居留地内に教会を作っても良い。


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