日米修好通商条約
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しかし、文久2年(1862年)ハリスが離日した後は、南北戦争(1861年-1865年)の影響もあり、アメリカ政府が対日外交を欧州諸国との協調路線に転換したこともあって、これらの条文が履行されることはなかった[11]。また、第13条に「1872年7月4日には条約を改正できる」と設けられた。しかし、後年の新明治日本政府は、その時点で組織が整っていなかったため交渉開始の延期を申し入れ、1876年から各国と条約改正交渉を開始したが、難航し、1894年7月16日日英通商航海条約の締結により領事裁判権の撤廃が実現。関税自主権を回復したのは1911年2月21日調印の新日米通商航海条約[注釈 1]まで要した。

条約書原本は、1997年(平成9年)に、歴史資料として重要文化財に指定された[12]
経緯タウンゼント・ハリス井伊直弼

日米和親条約により初代日本総領事に赴任したタウンゼント・ハリスが通商条約の締結を計画。しかし、日本側は消極的態度に終始した。ハリスは安政4年10月21日(1857年12月7日)に江戸城に登城し、当時の13代将軍徳川家定に謁見して国書を手渡した。ハリスの主張によりアメリカとの通商はやむを得ないという雰囲気が醸成され、下田奉行井上清直目付岩瀬忠震を全権として、安政4年12月11日(1858年1月25日)から条約の交渉を開始させた。交渉は15回に及び、清直と忠震は国内情勢の困難さから「いま江戸を開市しても商売にならない」旨を説いたが、ハリスはこれを信じず通商開始を優先させた。交渉内容に関して双方の合意が得られると、老中堀田正睦孝明天皇の勅許を得た上での条約締結を企図し、自ら忠震を伴って安政5年2月5日(1858年3月19日)に入京して尽力したが、攘夷論の少壮公家が抵抗した。孝明天皇自身「和親条約に基づく恩恵的な薪水給与であれば神国日本を汚すことにはならない」と考えていたが、「対等な立場で異国との通商条約締結は従来の秩序に大きな変化をもたらす」と考え勅許を拒否した。

ハリスはと戦争中(1856年 - 1860年)のイギリスフランスが日本に侵略する可能性を指摘し、それを防ぐには日本が友好的なアメリカと通商条約を結ぶ他無いと説得した。幕閣の大勢はイギリスとフランスの艦隊が襲来する以前に一刻も早くアメリカと条約を締結すべきと判断した。

正睦は事態打開のため松平春嶽大老就任を画策したが、就任したのは井伊直弼であった。直弼は、条約調印当日の6月19日(1858年7月29日)の閣議でも「天意(孝明天皇の意志)をこそ専らに御評定あり度候へ」と、最後まで勅許を優先させることを主張した。しかし開国・積極交易派の巨頭であった老中の松平忠固は「長袖(公卿)の望ミニ適ふやうにと議するとも果てしなき事なれハ、此表限りに取り計らハすしては、覇府の権もなく、時機を失ひ、天下の事を誤る」と即時条約調印を主張。幕閣の大勢は忠固に傾き、直弼は孤立した[13]。直弼はなおも「勅許を得るまで調印を延期するよう努力せよ」と指示したが、交渉担当の井上清直が「已むを得ない際は調印しても良いか」と質問、直弼は「その際は致し方も無いが、なるたけ尽力せよ(已むを得ざれば、是非に及ばず)[14]」と答え、列強から侵略戦争を仕掛けられる最悪の事態に至るよりは、勅許をまたずに調印することも可とした[15]米国海軍の外輪フリゲート艦・USS ポーハタン号

その閣議の後、清直・忠震の両名が神奈川沖・小柴(八景島周辺)のUSS ポーハタン号に赴き、艦上で条約調印に踏み切った。アメリカ側の全権はハリスであった。この際、停泊中の艦隊各艦から、定期外号砲を何度も撃ち鳴らして井上たちを脅かした上、ハリスから、天津条約調印のために清国に展開中の英仏艦隊が、近日中に日本にむけて出航準備中であるから、すぐにでも米国と条約を結ばなければ日本は英仏両国に占領されるであろう、とブラフをかけられたという。実際には、英仏両国艦の清国出発は1ヶ月後を予定しており、再度朝意を伺うのに十分な期間があったことになる。事実、ハリスは未だ在香港中の英仏両国国使に手紙を出して、両国使の訪日に先立って米国が日本との条約に漕ぎつけたことを自慢している。[16]

条約調印の4日後、正睦と忠固は老中を罷免された。正睦はこれまで朝意の賛同を得ることのできなかった失策により、忠固は条約締結にあたり朝意を全く意に介さなかったことが責に問われた。清直、忠震も、違勅の責めを負い、しばらくして左遷されている。幕府使節団を迎えるジェームズ・ブキャナン大統領

この後、日米修好通商条約の批准書を交換するために、万延元年(1860年)に正使新見正興、副使村垣範正、監察小栗忠順を代表とする万延元年遣米使節がポーハタン号でアメリカに派遣され、その護衛の名目で木村喜毅を副使として咸臨丸も派遣された。咸臨丸には勝海舟が艦長格として乗船し、木村の従者として福澤諭吉も渡米した。しかし条約締結は日本に大規模な政争を引き起こし、勅許の無いまま締結したことと同時期に問題となっていた将軍継嗣問題などが絡まり、直弼は派閥抗争鎮定のため反対派の幕臣や志士、朝廷の公家衆を大量に処罰(安政の大獄)、正睦や忠固、清直・忠震など条約関係者を排除した。結果、政局は不穏となり使節団のアメリカ訪問中に桜田門外の変が発生、直弼は暗殺され幕府の威信は低下した。

朝廷は直弼暗殺後も一向にこれらの条約を認めず、尊王攘夷運動においては条約の廃棄が要求された(破約攘夷論)。幕府も国内情勢の困難さから、開市・開港の延期(ロンドン覚書)や、再鎖港を求める外交交渉(横浜鎖港談判使節団)に尽力せざるを得なかった。しかし、アメリカ・イギリス・フランス・オランダの四カ国艦隊が兵庫沖に侵入して条約勅許を強硬に要求するに至り(兵庫開港要求事件を参照)、慶応元年9月16日(1865年11月4日)にこれを勅許した。この時、朝廷は兵庫開港は行わない旨の留保を付けたが、第15代将軍・徳川慶喜の圧力のもと慶応3年5月にはこれも勅許され、日本の開国体制への本格的な移行が確定した。

大政奉還後の明治元年1月15日(1868年2月8日)、朝廷(新政府)は列国公使に対して王政復古に伴って従来の条約は「大君(=将軍)」を「天皇」と読み替えた上で引続き有効である旨を通告し、日米修好通商条約を含めた旧幕府の締結した条約がそのまま継続されることとなった。
アメリカ国内

アメリカ国内での締結手続経緯は、以下のとおり[3]

1858年7月29日 - ハリスが署名

1858年12月15日 - アメリカ合衆国上院(アメリカ合衆国第34議会(英語版))が批准に助言と同意

1860年4月12日 - ジェームズ・ブキャナン大統領が批准を裁可

1860年5月22日 - ワシントンで批准書を交換

1860年5月23日 - 大統領が条約締結権行使を宣言

内容

ハリスとの交渉に先立ち、幕府はオランダとの間で日蘭追加条約を結び、貿易規制の緩和を認めていた。ロシアとの間にも同様の追加条約を結んでいた。幕府はアメリカとの交渉もこれを基に行う考えであったが、ハリスの目的は自由貿易であり、日本側にイニシアチブを取られないよう、条約草案を作成・提出した[17]。この草案を基に15回の交渉が行われ、内容が妥結した[18]。日米修好通商条約の内容は以下の通りである[19]。一方でアメリカだけ有利ではなく英仏艦隊の来航の可能性と阿片禍の危機についても説いている。[20]

第1条

今後日本とアメリカは友好関係を維持する。

日本政府はワシントンに外交官をおき、また各港に領事をおくことができる。外交官・領事は自由にアメリカ国内を旅行できる。

合衆国大統領は、江戸に公使を派遣し、各貿易港に領事を任命する。公使・総領事が公務のために日本国内を旅行するための免許を与える。

第2条

日本とヨーロッパの国の間に問題が生じたときは、アメリカ大統領がこれを仲裁する。

日本船に対し航海中のアメリカの軍艦はこれに便宜を図る。またアメリカ領事が居住する貿易港に日本船が入港する場合は、その国の規定に応じてこれに便宜を図る。
錦絵『新潟湊之真景』安政6年(1859年)井上文昌筆(新潟県立図書館蔵)

第3条

下田・箱館に加え、次の場所を開港・開市する。


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