日米修好通商条約
日本国米利堅合衆国修好通商条約
日米修好通商条約(外務省外交史料館蔵)
通称・略称日米修好通商条約
ハリス条約(Harris Treaty)
署名1858年7月29日[1]
(安政5年6月19日)
署名場所日本・江戸
発効1859年7月4日[1]
(安政6年6月5日)
現況失効
失効1899年7月17日(日米通商航海条約発効[2])
締約国 日本
アメリカ合衆国
言語日本語、英語、オランダ語(齟齬ある場合はオランダ語を正文とする)[1]
主な内容
公使の江戸駐在
領事の開港地駐在
横浜・長崎・新潟・兵庫・函館の開港(条約港の開設)
江戸・大坂(大阪)の開市
自由貿易、協定関税制、領事裁判権、外国人居留地の設定等に関する規定
関連条約日米和親条約、安政五カ国条約
条文リンク法令全書
日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく、英: Treaty of Amity and Commerce Between the United States and the Empire of Japan)は、安政5年6月19日(1858年7月29日)に日本とアメリカ合衆国の間で結ばれた通商条約[3]。安政五カ国条約の2つ。
アメリカ側に領事裁判権を認め、日本に関税自主権が無く、日本だけがアメリカに最恵国待遇を約束するなど、日本側に不利な不平等条約であるというのが定説となっている。日米修好通商条約は後に調印させられた改税約書で関税自主権を喪失し、低関税率に固定され、不平等条約となった。 アメリカ側の領事裁判権に関しては、外国人が日本で法を犯すことがあった場合には、日本の法律で罰せずに、外国の法律で罰することは、家康以来の祖法
江戸幕府が調印した条約で、批准書には「源家茂」として当時の14代征夷大将軍徳川家茂の署名と銀印「経文緯武」が押印され、安政7年4月3日(1860年5月22日)にワシントンで互いの国の批准書が交換された[4][3]。アメリカ全権タウンゼント・ハリスの名を冠して、ハリス条約(Harris Treaty)とも通称される。
概要
その後、尊攘派のテロ活動、薩摩の生麦事件、一橋慶喜の奉勅攘夷政策、長州の下関戦争などによって、列強の介入を招き、幕府は長州藩外国船砲撃事件の賠償金300万ドルの支払いや尊攘派の兵庫開港反対によって、関税引き下げ交渉を余儀なくされ、せっかく勝ち取った従価税方式で20%の関税を放棄させられ、慶応2年(1866年)5月13日、輸入税も輸出税もすべて一律に従量税方式で5%(インフレ期は実質税率約3%)という改税約書(江戸協約)の調印を強いられた。日米修好通商条約の貿易章程にあった、日本側が望めば関税率を改訂しなければならないという条件も削られてしまった。この結果、関税自主権を喪失し、低関税率で固定されるという敗戦国に課せられる屈辱的な不平等条約となった[9]。
ただし、日米修好通商条約第2条に「日本國と欧羅巴中の或る國との間にもし障り起る時は日本政府の囑に應し合衆國の大統領和親の媒となりて扱ふへし」と規定され、日本とヨーロッパ列強との間に揉め事が発生した場合アメリカが仲介することを宣言し、他の四カ国との条約にこの文言はなかった[10]。しかし、文久2年(1862年)ハリスが離日した後は、南北戦争(1861年-1865年)の影響もあり、アメリカ政府が対日外交を欧州諸国との協調路線に転換したこともあって、これらの条文が履行されることはなかった[11]。また、第13条に「1872年7月4日には条約を改正できる」と設けられた。しかし、後年の新明治日本政府は、その時点で組織が整っていなかったため交渉開始の延期を申し入れ、1876年から各国と条約改正交渉を開始したが、難航し、1894年7月16日の日英通商航海条約の締結により領事裁判権の撤廃が実現。関税自主権を回復したのは1911年2月21日調印の新日米通商航海条約[注釈 1]まで要した。
条約書原本は、1997年(平成9年)に、歴史資料として重要文化財に指定された[12]。
経緯タウンゼント・ハリス井伊直弼
日米和親条約により初代日本総領事に赴任したタウンゼント・ハリスが通商条約の締結を計画。しかし、日本側は消極的態度に終始した。ハリスは安政4年10月21日(1857年12月7日)に江戸城に登城し、当時の13代将軍徳川家定に謁見して国書を手渡した。ハリスの主張によりアメリカとの通商はやむを得ないという雰囲気が醸成され、下田奉行井上清直と目付岩瀬忠震を全権として、安政4年12月11日(1858年1月25日)から条約の交渉を開始させた。交渉は15回に及び、清直と忠震は国内情勢の困難さから「いま江戸を開市しても商売にならない」旨を説いたが、ハリスはこれを信じず通商開始を優先させた。交渉内容に関して双方の合意が得られると、老中堀田正睦は孝明天皇の勅許を得た上での条約締結を企図し、自ら忠震を伴って安政5年2月5日(1858年3月19日)に入京して尽力したが、攘夷論の少壮公家が抵抗した。