日章旗
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日本では法隆寺玉虫厨子背面の須弥山図に、赤い真円の日象が確認できる。これは平安時代の密教図像などにも見出される表現であり、大陸から仏教とともにもたらされた意匠であろうと推測される。九鬼嘉隆が造船した日本丸を中心に九鬼水軍の陣容を描いている。

日本で「白地赤丸」が日章旗として用いるようになった経緯は諸説あり正確には不明である。

一説には源平合戦(治承・寿永の乱)の結果が影響していると言われている。平安時代まで、朝廷の象徴である錦の御旗は赤地に金の日輪、銀の月輪が描いてある。平安時代末期に、平氏は自ら官軍を名乗り御旗の色である赤旗を使用し、それに対抗する源氏は白旗を掲げて源平合戦を繰り広げた。古代から国家統治と太陽は密接な関係であることから日輪は天下統一の象徴であり、平氏は御旗にちなんで「赤地金丸」を、源氏は「白地赤丸」を使用した。平氏が滅亡し、源氏によって武家政権ができると代々の将軍は源氏の末裔を名乗り、「白地赤丸」の日の丸が天下統一を成し遂げた者の象徴として受け継がれていったと言われる。なお、日本では「紅白」がめでたい配色とされてきた。一説には民俗学的にハレとケの感覚(ハレ=赤、ケ=白)にあるとする説や、これも源平合戦に由来するとする説などがある。

現存最古の日章旗としては山梨県甲州市の裂石山雲峰寺所蔵の「日の丸の御旗(みはた)」が知られている[5][6]。寺の伝承では、この旗は天喜4年(1056年)に後冷泉天皇より源頼義へ下賜され、頼義三男の新羅三郎義光から甲斐源氏宗家甲斐武田家に相伝され、楯無鎧と対の家宝とされてきた[5]。『甲斐国志』では長さ六尺四布とあるが、現在は約1/4が欠損している[5]。また同じく中世の日章旗とされるものとしては、奈良県五條市賀名生皇居跡(堀家住宅)に伝わる後醍醐天皇下賜のものが知られる[7]
近世旗印・馬印『江戸図屏風』(1624 - 1644。黒田日出男によれば1634 - 1635、松平信綱の命による製作。)。日本丸を改造した大龍丸などの幕府船団が日の丸の幟を立てている。『御船図』安宅丸。19世紀に描かれた想像図には、船尾部に複数の日の丸が見える。

近世には、「白地に赤丸」は意匠のひとつとして普及していた。

戦国時代の武将が旗印馬印として「白地に赤丸」を使用していた。

江戸時代の絵巻物などにはしばしば白地に赤丸の扇が見られるようになっており、特に狩野派なども赤い丸で「旭日」の表現を多用するようになり、江戸時代の後半には縁起物の定番として認識されるに到っていた。徳川幕府は公用旗として使用し、家康ゆかりの熱海の湯を江戸城まで運ばせる際に日の丸を立てて運ぶなどした。そこから「熱海よいとこ日の丸たてて御本丸へとお湯が行く」という唄が生まれたりした。

近世における船旗関連の資料としては、寛永期(1624 - 1644年)に描かれた江戸図屏風[8]の幕府船団の幟がある。船団中央には、日本丸を改造し改名した大龍丸などが描かれており日の丸の幟を立てている[9]。また、1635年寛永12年)に江戸幕府が建造した史上最大の安宅船「天下丸」(通称「安宅丸」)で「日の丸」の幟が使用されているのが知られている[10]東京国立博物館が所蔵する『御船図』(江戸時代・19世紀作)にも安宅丸が描かれており、船尾に複数の日の丸の幟が描かれている。江戸幕府の所持船の船印として、一般には徳川氏の家紋「丸に三つ葉葵」を用いたが、将軍家の所持船には日の丸を用いることもあった。

また、1673年寛文13年)に、江戸幕府が一般の廻船天領からの年貢米御城米)を輸送する御城米廻船を区別するために「城米回漕令条」を発布した際、その中で「御城米船印之儀、布にてなりとも、木綿にてなりとも、白四半に大なる朱の丸を付け、其脇に面々苗字名是を書き付け、出船より江戸着まで立て置き候様、之を申付けらる可く候」と、御城米廻船の船印として「朱の丸」の幟を掲揚するように指示し、幕末まで続いた。

18世紀末から19世紀にかけてロシア帝国の南下政策を警戒した幕府が蝦夷地天領化・北方警備等のため派遣した御用船(商船・軍船など)も日の丸を印した旗や帆を使用していた[11]
日本の国旗としての歴史
幕末
船舶用国籍旗としての制定

国旗としての日の丸は、幕末に江戸幕府幕府陸軍の「御国総標」(軍旗)として幕府海軍の船舶用の「国籍標識」(惣船印)として導入され、その後に船舶用に限らず国籍を示す旗として一般化した。幕末における船舶用としての制定経緯としては、次の二つの説がある。
薩摩藩主・島津斉彬提唱説
日の丸を掲げる幕府海軍昇平丸「中黒」の旗(白地に黒の縦一文字)

歴史学者松本健一国文学者暉峻康隆など、複数の学者の唱えるこの説が定説とされている。

1854年(嘉永7年)3月の日米和親条約調印後、日本船を外国船と区別するための標識が必要となり、日本国共通の船舶旗(日本惣船印)を制定する必要が生じた。幕臣達は当初「中黒」(徳川氏の先祖である新田氏の家紋「大中黒・新田一つ引」に手心を加えてアレンジした、「白地に黒の縦一文字」の「中黒」)を日本惣船印に考えていたが、薩摩藩主島津斉彬、幕府海防参与徳川斉昭らの進言によって、「日の丸」の幟を用いることになり、1854年8月2日(嘉永7年7月9日)、老中阿部正弘により布告された[12]

島津斉彬は老中首座の阿部正弘に、日の丸を日本国惣船印に用いるべきだという建白書を提出するにあたって、水戸藩の徳川斉昭、宇和島藩伊達宗城佐賀藩鍋島閑叟といった有力大名たちにも同意を得ていた。しかし反対意見も少なくなかった。とくに守旧派の幕府体制にこだわる人々には「日本国」という意識が乏しく、惣船印は徳川の「中黒」 を用いればよいではないかとする意見も少なくなかった。しかし開明的な藩主たちの後押しを得て、「日の丸」が日本国の惣船印に定められたのである[13]

1854年8月4日嘉永7年7月11日)、「日の丸」を日本国総船印に定める、とする布達には、次のように書かれている。大船製造については、異国船に紛れざるよう、日本国総船印は白地日の丸幟相用い候よう仰せいだされ候。かつ、公儀御船は白絹布交の吹き流し中柱へ相立て、帆の儀は白地中黒に仰せ付られ候。旭日丸を描いた絵(1856年制作)

島津斉彬は鹿児島城内から見た桜島から昇る太陽を美しく思い、これを国旗にしようと家臣に言ったといわれている。また薩摩藩から洋式軍艦「昇平丸」を幕府へ献上するため、1855年1月(安政2年2月)江戸へ回航された際、日の丸が船尾部に掲揚された[14]。これが日の丸を日本の船旗として掲揚した第一号とされる[13][15]

海事史学者の石井謙治は「斉彬提唱説」を取り上げつつも、日の丸が江戸幕府の御用船旗に用いられた事実から、日の丸が日本船の船印に提唱されたのは自然のこととしている[16]
幕閣・徳川斉昭提唱説
日の丸を掲げる幕府海軍鳳凰丸。なお、白地中黒の帆は幕府船の標識。

海事学者の安達裕之は、上記の説を俗説に過ぎないとしている。『水戸藩史料』等の幕閣や斉昭の書簡・仕様帳といった当時の史料から、安達が考察した日の丸制定の経緯は次のようになる。

1853年7月8日(嘉永6年6月3日)の黒船来航は、これまで低調であった大船建造の禁廃止による西洋船建造を推進させた。この際に問題とされたのが外国船との識別方法で、同年9月初旬(同年8月)に従前より「白地中黒」(白地に黒の横一文字)を幕府船の船印にした浦賀奉行が、蒼隼丸・下田丸の代船(後の鳳凰丸)へ白地中黒とは別に日の丸を掲げることを起工前に検討しており[17]、日の丸を日本船の船印にすることを企図している。


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