日産自動車
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

[42]

1970年 - マリーン事業(プレジャーボート)に進出。

1970年代 - 1990年代 - 第二次世界大戦後からシェアを積み上げ、一時はトヨタ自動車につぐ日本国内第2位のシェアを占めていたが、日本国内の日産車のシェアが年々低下の一途を辿り、経営陣と塩路一郎委員長率いる強固な労働組合との激しい抗争が長期に及び、1980年代後半には901活動による車両性能の向上と共に個性的なエクステリアデザインや商品戦略が各界から高く評価されて日産自動車全体のブランドイメージが向上するも、1990年代に入り、バブル景気の崩壊後は財務が悪化した上、デザインや商品戦略などの相次ぐ失敗で販売不振に陥り、経営危機が深刻化する。

1980年代

[43]

1980年

1月 - スペインのモトール・イベリカに資本参加。


1981年

7月 - 国内向けの一部車種と日本国外向けの車種に設けられていた「DATSUN」ブランドを廃止して、順次「NISSAN」ブランドへ変更して統一する方針を発表。

1月 - 開発拠点をテクニカルセンター(神奈川県厚木市)に集約。


1985年8月 - 社長が石原俊(事務系出身)から久米豊技術系出身)になり、今までの官僚経営から技術中心の経営、後の901活動を推進する経営へと変えていった。

1987年6月19日 - Y31型セドリックグロリア発売。グランツーリスモ系初設定。大ヒットする。このことにより、後のインフィニティ・Q45の発売を決定する。パイクカー・Be-1限定発売。大ヒットする。

1988年 - 日本初の3ナンバー専用車・セドリックシーマ・グロリアシーマを発売。大ヒットとなり、シーマ現象なる言葉ができた。 新ブランドセダン・マキシマセフィーロを発売。

1989年 - スカイラインGT-Rが復活。フラッグシップセダン・インフィニティ・Q45日米同時発売。アメリカにて高級車専門の「インフィニティ」ブランドを展開。車種は、インフィニティQ45とインフィニティ・M30の2車種であった。

1990年代

[44]

1994年 - 三星自動車(現、ルノーサムスン自動車)への技術支援を行う。

1999年3月 - フランスのルノーと資本提携し、ルノー=日産アライアンスを結成しルノーの傘下になる。6月にルノー副社長のカルロス・ゴーンが最高執行責任者(COO)に就任し、経営再建計画である「日産リバイバルプラン」を発表した。

2000年代

[45]

2000年 - フェアレディZ生産中止。Zの名前が2年近く消滅する。

2001年 - ゴーンが6月に社長最高経営責任者(CEO)となる。

2002年 - スズキより、軽自動車MRワゴン」のOEM供給を受け、「モコ」として発売開始。軽自動車市場へ参入を果たし、ゴーンが「日産リバイバルプラン」の目標達成を宣言した。また、フェアレディZが2年ぶりに復活する。

2003年

2月 - セフィーロを廃止し、前年に廃止となったローレルとの統合後継車としてティアナを投入。

10月 - 日産ディーゼル工業と小型トラックの合弁会社「日産ライトトラック」を設立。


2004年9月 - サニーを廃止し、ティーダを発売。10月、セドリックグロリアを廃止し、フーガを発売。12月、リバティを廃止し、ラフェスタを発売。

2005年

4月より従来の販売会社別での取扱車種を撤廃、全販売会社(レッドステージ&ブルーステージ)ですべての車種の購入が可能となる。

経営再建中の三菱自動車工業との包括的な事業提携。それに伴い、事業提携の一環として三菱製軽自動車eKワゴンのOEMとしてオッティを投入。

4月にゴーンが親会社のルノーの取締役会長兼CEO(PDG)に就任、日産の会長兼CEOも兼任する。

9月に、ゴーンが進めてきた日産180を終了。


2006年

6月 - グローバル生産累計台数1億台突破。

9月 - 日産ディーゼル工業の全ての株式をABボルボへ売却し、資本関係を消滅。


2007年12月 - スカイラインの名前を捨て新たな道を歩む、日産GT-Rを販売開始。

2008年 - 環境省の「エコファースト制度」に認定。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:413 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef