国外では高級車の「インフィニティ」ブランドおよび新興国向けの低価格車ブランド「ダットサン」での展開も行っていたほか、ルノーの車種を「日産」ブランドで販売している(ルノー・ジャポンは日産グローバル本社屋内に籍を置く)。海外では特にSUVと小型車、ピックアップトラックに強みを持っており、日産の2021年(令和3年)のグローバル販売台数は382万台、グローバル生産台数は338万台である。
2010年(平成22年)の世界販売台数は400万台の大台を突破し、日本の自動車メーカーとしてはトヨタ自動車に次いで第2位となった[15]。2017年(平成29年)の上半期には、ルノー、三菱自動車と合わせた世界販売台数でグループ第1位を獲得した。ここ数年での国内の登録車台数において本田技研工業に次いで第3位となっている。
女性活躍推進に優れている企業を選定・発表している経済産業省と東京証券取引所との共同企画である「なでしこ銘柄」に第一回(2012年度)から連続して選定されている(2017年度まで)[16][17]。
日本の自動車メーカーではいち早く電動化技術に対応し、2022年(令和4年)7月以降、日本国内向け二次電池式電気自動車は、日産リーフをはじめ、日産アリア、日産サクラの3車種に上る。
また、日産独自のシリーズハイブリッドシステムである、e-POWERを様々な車種に搭載している。
歴史
日産自動車の興り旧本社(東京都中央区銀座六丁目)
1905年に、鮎川義介が最先端技術であった鋳物技術の習得へ渡米した際に、米国工業の頂点に自動車工業があると見たことに端を発する。
義介の帰国後、大叔父の井上馨の斡旋により、親戚の久原家、貝島家、藤田家、三井家の出資を受け、1910年に福岡県戸畑市(現在の北九州市戸畑区)において戸畑鋳物株式会社(現在のプロテリアル、旧日立金属)を創設し、義介が専務技師長となり鋼管製造の傍ら、1924年には農業用・工業用・船舶用石油発動機製造販売へ事業を発展させた。戸畑鋳物東京製作所(深川)を新設し1929年(昭和4年)に自動車用マレブル鋳鉄製造を始める一方で、久原家が興した久原鉱業の社長に就任して同社を改組し、1928年に日本産業株式会社(略称、日産)とした。後の日本産業コンツェルンの基となる。
戸畑鋳物株式会社の傘下として、1931年にダット自動車製造株式会社を収めるものの、1933年(昭和8年)ダット自動車製造株式会社が、株式会社石川島自動車製作所と合併し自動車工業株式会社(現在のいすゞ自動車)を設立するに際して、戸畑鋳物株式会社がダットサンの商標と製造権、および、大阪工場を無償で譲り受け、日本産業株式会社の出資を加えて同年12月に、新ためてダットサンの製造のために自動車製造株式会社を設立する。同社を、翌1934年(昭和9年)に日産自動車株式会社と改称したのが、興りである。
1936年(昭和11年)9月14日、自動車製造事業法に基づき豊田自動織機とともに政府から自動車製造許可を受けた[18]。
なお、先の自動車工業株式会社は、橋本増治郎が1911年に設立した快進社がルーツであり、1914年に誕生したダット号が初の自動車の開発・製造であった。しかし、ダットサンの知財と大阪工場を得たのは日産であった。 創業期より先進技術の吸収に積極的で、日産自動車は日本フォードや日本ゼネラル・モータースなみの大型乗用車を製造するため、1936年にアメリカのグラハム・ペイジ
創業 - 1980年代
1958年には、当時世界で最も過酷なオーストラリア大陸一周ラリーに自社開発のダットサン・210型で出場してクラス優勝を飾り、1960年には業界初のデミング賞を受賞するなど、創業時より技術力の高さから「旗は日の丸、車はダットサン」、「技術の日産」として親しまれ、故障が少なく高速走行を得意としたことで医者の往診に愛用されたことから「医者のダットサン」としても親しまれた。
1966年8月1日には、経営難に陥ったプリンス自動車工業を通産省主導により合併。スカイライン、グロリアなどの車種と、中島飛行機・立川飛行機の流れを汲む人材を戦列に加えた。