日琉語族
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ジョン・ホイットマン宮本一夫らは山東半島から朝鮮半島南部に移住した日琉語族話者が無文土器時代の末まで存続し、琵琶形銅剣の使用に代表される朝鮮半島青銅器時代に朝鮮語話者に置き換わったとしている[27][29]

一方でアレキサンダー・ボビンは朝鮮半島の三国時代において高句麗から朝鮮語族話者が南下し、百済新羅加耶などの国家を設立するまで朝鮮半島南部では日琉語族話者が存在していたとする[25]。また、別の発表では、日琉語族とオーストロアジア語族またはタイ・カダイ語族の間に接触の痕跡があることから、日琉語族の(朝鮮半島よりさらに過去の)故地は中国南部であり、“Altaic”ではないと主張している[30][23]

ユハ・ヤンフネンは、言語の伝播と人の移動は必ずしも一致しないと断った上で、日琉祖語はまずシナ・チベット語族の影響を受けたとし、その場所は中国から朝鮮半島へのルートを考慮すると、可能性として挙げられるのは山東半島長江デルタではないかとした。そして朝鮮半島に移動した後で「アルタイ化」され、その後日本列島に入ったとした。そして日本列島で多少の「縄文語化」を受けたとした。また朝鮮半島に残った日本語(パラ日本語)話者の代表例として百済の言語を挙げた[31]

マーティン・ロベーツは、前6?5千年紀以降に山東半島大?口文化などと交流のあった遼東半島後窪遺跡の文化が日琉祖語ではないかとしており、この交流を通じて大?口文化からオーストロネシア語族の影響があったのではないかとした[32]。さらに前3300年頃に水稲稲作が朝鮮半島に伝わり、無文土器文化が成立した。朝鮮半島東南部では水稲稲作の普及が進まず、この文化が前3千年紀に九州に伝わって弥生文化が成立し、日本列島に日琉語族が広まったとした[33][32]。ただしロベーツらのトランス・ユーラシア語族へはいくつかの批判がある[34][35]
大陸倭語詳細は「大陸倭語」を参照

三国史記』に記された地名とその意味から、古代には日琉語族と系統的に関連する言語が朝鮮半島でも話されていたという説がある[27][36]
分岐とそれ以降「日琉祖語#日琉の分岐」、「琉球祖語#分岐年代」、「日本語の方言#歴史」、「日本語#歴史」、および「琉球語#歴史」を参照
脚注[脚注の使い方]^ Pellard 2020, p. 9, Pellard 2024, §2
^ 中本 1976.
^ Thorpe 1983.
^ Vovin 2017, §2.
^ 五十嵐 2021, pp. 20?21.
^ Pellard 2024.
^ Celik & 木部 2019, pp. 5?8.
^ a b Pellard 2016, §1.1.
^ a b c Pellard 2019.
^ 平子 & Pellard 2013, §2.5, §6.
^ Pellard 2015, Pellard 2021.
^ Pellard 2013, §3.
^ 五十嵐 2018, 五十嵐 2021.
^ Pellard 2021, §3.
^ 林 & 衣畑 2021, 脚注4.
^ de Boer 2020.
^ a b Whitman 2016.
^ a b c Pellard 2016.
^ Pellard 2008.
^ a b Whitman 2012.
^ 五十嵐 2021.
^ Vovin 2017.
^ a b Vovin 2021a.
^ Bellwood 2013.
^ a b Vovin 2013.
^ Lee & Ramsey 2011.


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