日独伊三国軍事同盟
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日本は米が対日武力圧力を加え来たりたる場合、初めて南方に武力行使をなすべし」という消極的なものであった[33]
日独伊共同作戦

数少ない日本とドイツとイタリア三国間、日本とドイツまたは日本とイタリアの二国間の軍による共同作戦が行われたのは、イギリスとその植民地のインドアフリカオーストラリアマレー半島を結ぶ上に、スエズ運河につながることから、長年イギリスが支配していたインド洋における海軍の作戦であった。

なお、隣国である独伊間の陸空軍の共同作戦は行われたものの、両国本土から数千キロ離れた日本と両国の陸空軍の共同作戦は、同盟関係が保たれている間一度として行われなかった。
セイロン沖海戦ペナン軍港に停泊する伊10

1942年2月18日、クルト・フリッケ(de:Kurt Fricke)独海軍作戦部長から、当時日本海軍がイギリス海軍を放逐しつつあったインド洋への潜水艦の派遣が要請され、「米英の造船能力に鑑み、日本が月に20万トンから30万トンを撃沈できれば、イギリスは両手を挙げるであろう」と、海上交通破壊戦の重要性を強調された。ついで3月27日にもフリッケ中将から、現在の戦局重点は中近東スエズエジプトにあり、日本海軍がドイツ、イタリアのエジプト進攻に呼応して、アフリカ東方海域を北上する船舶を攻撃し、連合国の補給路を遮断することを強く要請された。

その後4月上旬に行われたセイロン沖海戦で日本海軍は、イギリス海軍の空母1隻、重巡洋艦2隻、駆逐艦2隻を撃沈し、その結果イギリス海軍の残存艦艇は、5月上旬に親独のヴィシー政府軍から奪ったアフリカ大陸南部沿岸のマダガスカルに避難した。
マダガスカルの戦い

5月31日に日本海軍は残存イギリス海軍艦艇を壊滅すべく、大型潜水艦でマダガスカルを攻撃し、1隻を撃沈し1隻を大破させ、さらに上陸した水兵が小規模な戦闘をおこなった。

さらにドイツおよびヴィシー政権からマダガスカル奪還作戦への協力を依頼されたものの、この時点における最大の目的を貫徹していた日本海軍にとって、補給が困難な上に主戦場から遠く離れているマダガスカルは軍事戦略的に重視しておらず、ドイツ海軍及びヴィシー政府軍による増援要請があったからといっても更なる戦力を割いてまで制圧するための追加派遣は行わなかった。
追加派遣要請

さらにミッドウェー作戦を計画中でアフリカ沿岸までに大量の艦船を派遣するほどの戦力がなかったため、5月31日の作戦以降は日本海軍による目立った作戦行動や、日本陸軍戦力の上陸およびヴィシー・フランス軍への支援及び援助行動は行われなかった。しかしインド洋へのドイツからの派遣要請はミッドウェー敗戦後も続き、6月22日にはフリッケ中将から、「スエズ作戦が全戦局に及ぼす影響は極めて大きく、ミッドウェー海戦ではアメリカ軍が辛くも勝利したものの、太平洋各地で敗戦を重ねる連合国軍による大規模な反攻は数ヶ月間はあり得ない」という意見を根拠に、日本海軍のさらなるインド洋進出を強く要請された。

この要請に日本海軍はインド洋派遣中の仮装巡洋艦と潜水艦の派遣期間を延長すると応じたが、ドイツ海軍の不満は強かった。7月19日にはイタリア軍参謀次長からフリータウン港付近の輸送船を撃沈するよう要請された。6月20日、ドイツ軍が北アフリカのトブルクを占領すると、7月7日と11日に永野軍令部総長は、第二艦隊と第三艦隊を基幹とする兵力でインド洋中部さらに西部に進出する作戦を上奏した[32]

9月7日、フリッケ作戦部長は日本がインド洋のアフリカ沿岸部に部隊を派遣しなかったため「戦略的に時期遅れとなってしまった」と非難し、野村中将も「三国同盟の対敵目標は軍事協定で合意したとおり、英米でなければならぬのに、対ソ戦を重視するドイツの戦争指導は三国同盟の趣旨に反する」と反論するなど、日独間には摩擦と亀裂が深まった。

アメリカ軍およびオーストラリア国防軍と対峙するソロモンニューギニア方面の作戦の都合上、日本軍にとって重要性が低かった大規模なインド洋での作戦が中止されると、独伊両国の不満が高まり、「日本が勝手にアメリカと戦争を始め、ドイツ、イタリアを引っ張り込んだが、同盟国が苦戦しているのに協力しない、日本は利己一点張りである」という非難や、「こんなことならアメリカに対して宣戦布告を行うべきでなかった」といった非難が聞かれるようになった[32]
三国共同作戦ドイツ海軍の「ウッカーマルク」イタリア海軍の「コマンダンテ・カッペリーニ」(1944年/瀬戸内海

これらの作戦は主に日本とドイツ、または日本とイタリアの二国間の間で行われたものであったが、イタリアが連合国軍に降伏するまでの短期間ではあったものの、インド洋と中国において日独伊三国の共同作戦が行われた。

1942年8月6日には、日本海軍の伊号第三十潜水艦がインド洋を経由してドイツ占領下のフランスのロリアンに派遣された。その後1944年にかけて日本海軍の潜水艦がドイツとの間を往復し、インド洋と大西洋では共同で通商破壊作戦も行った(遣独潜水艦作戦)。

また、ドイツ海軍からも潜水艦と封鎖突破船16隻が派遣され(柳船)、日本軍占領下のペナンとシンガポールを拠点にインド洋で日本海軍の協力の元通商破壊作戦を行い、連合国軍の輸送船などを撃沈、鹵獲している。また一部の封鎖突破船は横浜港を拠点に太平洋でも活動した。

イタリア海軍は日本の開戦当時、イタリア極東艦隊が天津租界周辺と日本本土周辺において共同活動を行ったほか、ドイツ軍占領下のフランスのボルドー軍港にドイツ海軍との協同作戦基地を保持し、1943年3月にドイツ海軍との間で大型潜水艦の貸与協定を結んだ後に「コマンダンテ・カッペリーニ」など5隻の潜水艦を日本軍占領下の東南アジアに送っている。またイタリア海軍は、日本が占領下に置いたシンガポールに潜水艦の基地を作る許可を取り付け、工作船と海防艦を送り込んだ。

しかし、9月8日にイタリアが連合国軍に降伏したため、工作船や海防艦、客船などは日本軍に接収、もしくはイタリア海軍により自沈され、5隻の潜水艦はシンガポールの潜水艦基地でドイツ海軍に接収され、ここに日独伊三国の共同作戦は終了した。
日伊連絡飛行日本を訪問したSM.75 GA RT

1942年には、イタリア軍の大型輸送機の「サヴォイア・マルケッティ SM.75 GA RT」により、イタリアと日本、もしくは日本の占領地域との飛行を行うことを計画し、グイドーニア・モンテチェーリオからイタリアと離陸後戦争状態にあったソビエト連邦を避けて、ドイツ占領下のウクライナザポリージャアラル海北岸、バイカル湖の縁、タルバガタイ山脈を通過しゴビ砂漠上空、モンゴル上空を経由し、6月30日に日本占領下の内モンゴル包頭に到着した。

その後東京へ向かい7月16日まで滞在し、7月18日包頭を離陸してウクライナのオデッサを経由してグイドーニア・モンテチェーリオまで機体を飛行させ、この任務を完遂した。外交上の理由による日本の不同意にもかかわらずイタリアは8月2日にこの出来事を公表し、2国間の関係は冷え冷えとしたものになり、イタリアは再びこの長距離飛行を行おうとはしなかった[34]

なおその後日本軍が逆のコースで飛行しようとしたが、輸送機が行方不明になりとん挫した。またドイツ軍も同様の飛行を行おうとしたが、長距離飛行に適した機材が無いとの理由から断念している。
同盟の消滅

1943年(昭和18年)10月13日、連合国に降伏したイタリア王国はドイツに宣戦し、同盟を破棄した。日独両国は共同声明を発して同盟を再確認し、さらに三国同盟にはドイツの影響を受けたイタリア社会共和国が加わったが、1944年に入ると東欧の同盟国は次々に離脱した。1945年(昭和20年)4月25日にイタリア社会共和国は解体され、5月7日にドイツが降伏し、残った日本政府はこの日付で同盟条約の失効を確認している[35]
関連人物

大島浩(駐ドイツ日本大使、1938-39年、1940-45年)

松岡洋右(日本外相)

アドルフ・ヒトラー

来栖三郎(駐ドイツ日本大使、同盟締結時の日本代表)

ベニート・ムッソリーニ

ヨアヒム・フォン・リッベントロップ

ガレアッツォ・チャーノ(イタリア外相、同盟締結時の伊代表)


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