日独伊三国軍事同盟
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イタリアは既に1933年に伊ソ友好中立不可侵条約を結んでいた[30]。しかし日伊に通告なく始められた独ソ戦によってその構想は消えてしまった。近衛は、独ソ戦によって三国同盟の意味が無くなったとして同盟を破棄することも考えたが、陸軍の反発を恐れて結局この考えを公に提起することは無かった[31]。松岡は直ちに対ソ攻撃するよう主張したが、陸軍内部ではソ連の敗北が明らかになってから参戦する「熟柿論」が台頭したため、結局参戦を見合わせた。
同盟の実態

条約の条文に拠れば、いずれか1か国が現在戦争に関係していない国から攻撃を受けた場合にのみ相互援助義務が生じる。このため、1941年6月22日未明に独ソ戦が始まった後の1941年7月には、日本はドイツに呼応して挟撃する動き(関東軍特種演習)を見せたものの結局はソビエト連邦と中立関係を保った。

一方、日本が1941年12月8日に英米と開戦した後、相互援助義務は生じないにもかかわらず、ヒトラーとムッソリーニは12月11日にアメリカに対して宣戦布告した。その後日独伊3国によって、日独伊単独不講和協定(1941年12月11日締結、17日公布)が締結され、さらに翌年1月18日には共通の戦争指導要綱に関して日独伊新軍事協定も結ばれて同盟関係は強化された。連合国側も同様に1月1日に連合国共同宣言を発し、世界は二大同盟による戦争に突入した。

しかし合同幕僚長会議などを設置し緊密に連絡を取り合っていた連合国に対し、枢軸国では戦略に対する協議はほとんど行われなかった。対ソ宣戦、対米宣戦の事前通知は行われなかった。日独伊共同作戦についても、後述のように日本・ドイツや日本・イタリアの海軍作戦こそ行われ成功したが、両国本土から数千キロ離れた日本と両国の陸空軍の共同作戦は、関係が保たれている間一度として行われなかったことからみて、法律上の「同盟」ではなく、あくまで「相互援助」であった事実がわかる。なお、日英同盟や日泰攻守同盟には明確に「同盟」の文言が記載されているが、日独伊三国条約には同盟の文言は存在しない。
同盟初期の関係

日本は1941年12月に第二次世界大戦へ参戦したマレー作戦以前から、ドイツに対しイギリスに察知されない範囲、中立義務に違反しない範囲で以下のような情報を提供していた。
英国の部隊および艦船の動静に関する情報

補給船に対する食糧・燃料や分品などの提供

武装商船・補給船への基地の提供

ドイツ商船の日本回航時の偵察援助

ドイツ補給船の入渠および修理

駐英武官報告からの英国情報、特に艦艇の被害状況やロンドン空襲の効果

1940年11月22日、パウル・ヴェネッカー駐日武官はオットー・シュニーヴィント海軍軍令部長に「ドイツにとり第一の、かつ最も重要な目標は英国の屈服であり、日本の対英参戦こそ、この方向への第一歩である。…日本を扇動して南方へ攻勢をとらせるよう全力を傾注すべきと思考する。日本陸軍首脳もこの見解に反対でないので、海軍の説得に成功すれば、この方向へ進出することへの障害はすべて除去されるであろう」という電報を発した。12月27日、ドイツ海軍総司令部がヒトラーに日本軍のシンガポール攻略は英国の戦意を喪失させるが、米国の介入を招くことはないであろうと意見具申を行い、翌1941年1月18日にドイツはシンガポール攻略を日本に要請した。2月23日、リッベントロップ外相が大島浩大使に「自らの利益のためにも、可及的速やかに参戦されたい。決定的打撃はシンガポール攻略であろう。日本が講和条約締結までに手中に入れたい東南アジアの資源地帯を確保しておくことが、日本の国益や新秩序建設のためにも必要であろう。また、米国が参戦し艦隊をアジアに派遣するほど軽率ならば、戦争を電撃的に終わらせる最大の好機となるであろう。すべての仕事は日本艦隊が片付けると確信している」とシンガポール攻略を要請すると、大島大使は「自分も同意見であり、…現在は陸・海軍ともにシンガポール攻略を準備中で、5月までには完了するであろう」と回答した。3月4日、オイゲン・オット駐日独大使は、杉山元参謀総長および永野修身軍令部総長などを大使館に招き、「ドイツの英本土上陸作戦に呼応してシンガポールを攻略するのがよいではないか。米国の戦争準備ができる前に英国が崩壊に瀕した場合は、米国が戦争に入ることはないと思います」とシンガポール攻略を要請した。3月13日、ヴェネカー武官は近藤信竹海軍軍令部次長を訪問し、英国を屈服させれば米国は対英支援を中止し参戦はしないであろう。現在のような有利な態勢は今後50年ないし100年内に二度と訪れることはなく、今が絶好の好機であると説得したが、近藤少将の回答は変わらなかった。親独派の関根郡平少将が海軍省からシンガポール攻略の主張を控えるよう注意されるなど、海軍のシンガポール攻略熱は低下していた。オット大使はシンガポール問題は対ソ問題であると報告した[32]

松岡洋右外相は1941年3月27日と4月4日にヒトラーと会談し、可及的速やかにイギリス領シンガポールを攻略することが日本の利益である、またドイツにとってもきわめて重要であるとシンガポール攻略と強く要請された。しかし、海軍の態度は、4月9日に陸軍に送付した対南対策では、「もっぱら外交に依る。好機に投ずる武力行使なし。自存自衛のため初めて起つ。英国勢力の駆逐なし」であり、英国が敗れた場合でも「好機にあらず。対日武力圧力はむしろ加わる。日本は米が対日武力圧力を加え来たりたる場合、初めて南方に武力行使をなすべし」という消極的なものであった[33]
日独伊共同作戦

数少ない日本とドイツとイタリア三国間、日本とドイツまたは日本とイタリアの二国間の軍による共同作戦が行われたのは、イギリスとその植民地のインドアフリカオーストラリアマレー半島を結ぶ上に、スエズ運河につながることから、長年イギリスが支配していたインド洋における海軍の作戦であった。

なお、隣国である独伊間の陸空軍の共同作戦は行われたものの、両国本土から数千キロ離れた日本と両国の陸空軍の共同作戦は、同盟関係が保たれている間一度として行われなかった。
セイロン沖海戦ペナン軍港に停泊する伊10

1942年2月18日、クルト・フリッケ(de:Kurt Fricke)独海軍作戦部長から、当時日本海軍がイギリス海軍を放逐しつつあったインド洋への潜水艦の派遣が要請され、「米英の造船能力に鑑み、日本が月に20万トンから30万トンを撃沈できれば、イギリスは両手を挙げるであろう」と、海上交通破壊戦の重要性を強調された。ついで3月27日にもフリッケ中将から、現在の戦局重点は中近東スエズエジプトにあり、日本海軍がドイツ、イタリアのエジプト進攻に呼応して、アフリカ東方海域を北上する船舶を攻撃し、連合国の補給路を遮断することを強く要請された。

その後4月上旬に行われたセイロン沖海戦で日本海軍は、イギリス海軍の空母1隻、重巡洋艦2隻、駆逐艦2隻を撃沈し、その結果イギリス海軍の残存艦艇は、5月上旬に親独のヴィシー政府軍から奪ったアフリカ大陸南部沿岸のマダガスカルに避難した。
マダガスカルの戦い

5月31日に日本海軍は残存イギリス海軍艦艇を壊滅すべく、大型潜水艦でマダガスカルを攻撃し、1隻を撃沈し1隻を大破させ、さらに上陸した水兵が小規模な戦闘をおこなった。

さらにドイツおよびヴィシー政権からマダガスカル奪還作戦への協力を依頼されたものの、この時点における最大の目的を貫徹していた日本海軍にとって、補給が困難な上に主戦場から遠く離れているマダガスカルは軍事戦略的に重視しておらず、ドイツ海軍及びヴィシー政府軍による増援要請があったからといっても更なる戦力を割いてまで制圧するための追加派遣は行わなかった。
追加派遣要請

さらにミッドウェー作戦を計画中でアフリカ沿岸までに大量の艦船を派遣するほどの戦力がなかったため、5月31日の作戦以降は日本海軍による目立った作戦行動や、日本陸軍戦力の上陸およびヴィシー・フランス軍への支援及び援助行動は行われなかった。しかしインド洋へのドイツからの派遣要請はミッドウェー敗戦後も続き、6月22日にはフリッケ中将から、「スエズ作戦が全戦局に及ぼす影響は極めて大きく、ミッドウェー海戦ではアメリカ軍が辛くも勝利したものの、太平洋各地で敗戦を重ねる連合国軍による大規模な反攻は数ヶ月間はあり得ない」という意見を根拠に、日本海軍のさらなるインド洋進出を強く要請された。

この要請に日本海軍はインド洋派遣中の仮装巡洋艦と潜水艦の派遣期間を延長すると応じたが、ドイツ海軍の不満は強かった。7月19日にはイタリア軍参謀次長からフリータウン港付近の輸送船を撃沈するよう要請された。6月20日、ドイツ軍が北アフリカのトブルクを占領すると、7月7日と11日に永野軍令部総長は、第二艦隊と第三艦隊を基幹とする兵力でインド洋中部さらに西部に進出する作戦を上奏した[32]

9月7日、フリッケ作戦部長は日本がインド洋のアフリカ沿岸部に部隊を派遣しなかったため「戦略的に時期遅れとなってしまった」と非難し、野村中将も「三国同盟の対敵目標は軍事協定で合意したとおり、英米でなければならぬのに、対ソ戦を重視するドイツの戦争指導は三国同盟の趣旨に反する」と反論するなど、日独間には摩擦と亀裂が深まった。

アメリカ軍およびオーストラリア国防軍と対峙するソロモンニューギニア方面の作戦の都合上、日本軍にとって重要性が低かった大規模なインド洋での作戦が中止されると、独伊両国の不満が高まり、「日本が勝手にアメリカと戦争を始め、ドイツ、イタリアを引っ張り込んだが、同盟国が苦戦しているのに協力しない、日本は利己一点張りである」という非難や、「こんなことならアメリカに対して宣戦布告を行うべきでなかった」といった非難が聞かれるようになった[32]
三国共同作戦ドイツ海軍の「ウッカーマルク」イタリア海軍の「コマンダンテ・カッペリーニ」(1944年/瀬戸内海

これらの作戦は主に日本とドイツ、または日本とイタリアの二国間の間で行われたものであったが、イタリアが連合国軍に降伏するまでの短期間ではあったものの、インド洋と中国において日独伊三国の共同作戦が行われた。


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