日独伊三国軍事同盟
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昭和天皇は調印三日前に木戸幸一内大臣に、三国同盟は「日英同盟の時のようにただ慶ぶというのでなく、万一情勢の推移によっては重大な危局に直面するのであるから、親しく賢所に参拝して報告するとともに、神様のご加護を祈りたい」と話したという[24]

9月19日の第三回御前会議原嘉道枢密院議長は「…本条約は米国を目標とする同盟条約で、これを公表することにより、米国の欧州戦線への参戦を阻止しようとする独伊の考えである。米国は最近、英国に代り東亜の番人を以て任じ、日本に対し圧迫を加えているが、なお日本を独伊側に加入せしめないため、かなり手控えているだろう。然るにこの条約発表により、日本の態度が明白となれば、日本に対する圧迫を強化し、極力蒋介石を援助して日本の事変遂行を妨ぐるだろうし、又、独伊に対し宣戦していない米国は、日本に対しても経済圧迫を加え、日本に対し石油、鉄を禁輸する共に、日本より物資を購入せず、長期にわたり日本を疲弊、戦争に堪えざるに至らしむる如く計るだろうと考える…」と質問した。またヨーロッパ戦線にアメリカが参戦した際に日本が参戦しなければならないのかという議論もあったが、松岡は手続き上の問題が残されていると言って押し切り、同盟締結は正式に決定された。

9月26日の枢密院では深井英五顧問官は「条約の前文には、万邦をしてその所を得しむとあるが、ヒットラーは嘗て『他の民族に対し弱肉強食は天地の公道なり』と揚言しており、思想観念が相反するではないか」と述べ、石塚英蔵顧問官は「ドイツ国との条約は過去の経験上、十全を期し難し、政府は如何にして彼の誠意を期待し得るか」と警告し、石井菊次郎は「由来、ドイツと結んで利益を受けた国はない。…ヒットラーも危険少なからぬ人物である。わが国と防共協定を結んでおきながら、それと明らかに矛盾する独ソ不可侵条約を結んだ…」と述べた。しかし結果的には承認された。

9月27日、東京の外相官邸とベルリンの総統官邸において調印が行われた。
日独伊三国間条約の原文日独伊三国同盟条約調印書(日本語版)

条約原文は英文テキストでこれにベルリンで署名調印され、約3週間後に日本で印刷されたテキストを駐日ドイツ大使館クーリエに依りドイツに運ばれ改めて署名調印された。現在見られるのは後者の方で 外務省外交史料館 に展示されている。

条約調印式はベルリンで行われ、ドイツ外相ヨアヒム・フォン・リッベントロップ、イタリア外相ガレアッツォ・チャーノ、日本からは特命全権大使来栖三郎が条約に調印した。

条約の正式名称は、日本語では「日本國、獨逸國及伊太利國間三國條約」(昭和十五年條約第九號、日獨伊三國同盟條約)という。日本國、獨逸󠄁國及󠄁伊太利國間三國條約󠄁大日本帝?國政府、獨逸󠄁國政府及󠄁伊太利國政府ハ萬邦󠄁ヲシテ各其ノ所󠄁ヲ得シムルヲ以テ恆久平󠄁和ノ先決要󠄁件ナリト認󠄁メタルニ依リ大東亞及󠄁歐洲ノ地域ニ於󠄁テ各其ノ地域ニ於󠄁ケル當該民族ノ共存共榮ノ實ヲ擧ケルニ足ルヘキ新秩序ヲ建󠄁設シ且之ヲ維持センコトヲ根本義ト爲シ右地域ニ於󠄁テ此ノ趣旨ニ據ル努力ニ付相互ニ提攜シ且協力スルコトニ決意󠄁セリ而シテ三國政府ハ更󠄁ニ世界到ル所󠄁ニ於󠄁テ同樣ノ努力ヲ爲サントスル諸󠄀國ニ對シ協力ヲ吝󠄁マサルモノニシテ斯クシテ世界平󠄁和ニ對スル三國終󠄁局ノ抱󠄁負󠄁ヲ實現センコトヲ欲ス依テ日本國政府獨逸󠄁國政府及󠄁伊太利國政府ハ左ノ通󠄁協定セリ

第一條 日本國ハ獨逸󠄁國及󠄁伊太利國ノ歐洲ニ於󠄁ケル新秩序建󠄁設ニ關シ指導󠄁的󠄁地位ヲ認󠄁メ且之ヲ尊󠄁重ス
第二條 獨逸󠄁國及󠄁伊太利國ハ日本國ノ大東亞ニ於󠄁ケル新秩序建󠄁設ニ關シ指導󠄁的󠄁地位ヲ認󠄁メ且之ヲ尊󠄁重ス
第三條 日本國、獨逸󠄁國及󠄁伊太利國ハ前󠄁記ノ方針ニ基ク努力ニ付相互ニ協力スヘキコトヲ約󠄁ス更󠄁ニ三締約󠄁國中何レカノ一國カ現ニ歐洲戰爭又ハ日支紛󠄁爭ニ參入シ居ラサル一國ニ依テ攻?セラレタルトキハ三國ハ有󠄁ラユル政治的󠄁、經濟的󠄁及󠄁軍事的󠄁方法ニ依リ相互ニ援󠄁助スヘキコトヲ約󠄁ス
第四條 本條約󠄁實施ノ爲各日本國政府、獨逸󠄁國政府及󠄁伊太利國政府ニ依リ任命セラルヘキ委員ヨリ成ル混合專門委員會ハ遲滯ナク開催セラルヘキモノトス
第五條 日本國、獨逸󠄁國及󠄁伊太利國ハ前󠄁記諸󠄀條項カ三締約󠄁國ノ各ト「ソヴィエト」聯邦󠄁トノ間ニ現存スル政治的󠄁?態ニ何等ノ影響󠄃ヲモ及󠄁ホサヽルモノナルコトヲ確認󠄁ス
第六條 本條約󠄁ハ署󠄀名ト同時ニ實施セラルヘク、實施ノ日ヨリ十年間有效トス右期󠄁間滿了前󠄁適󠄁當ナル時期󠄁ニ於󠄁テ締約󠄁國中ノ一國ノ要󠄁求ニ基キ締約󠄁國ハ本條約󠄁ノ更󠄁新ニ關シ協議スヘシ
右證據トシテ下名ハ各本國政府ヨリ正當ノ委任ヲ受󠄁ケ本條約󠄁ニ署󠄀名調󠄁印セリ

昭和十五年九月󠄁二十七日?チ一九四〇年、「ファシスト」?十八年九月󠄁二十七日伯林ニ於󠄁テ本書三通󠄁ヲ作成ス
締結直後の反応「仲良し三国」?1938年の日本のプロパガンダ葉書はドイツ、イタリアとの日独伊三国防共協定を宣伝している

条約締結後の外務省情報部長須磨弥吉郎は10月4日、「9月27日は日本のみならず世界の史的転換への一日であった」とラジオ演説を行い、条約の意義を強調した。当時アメリカは第三条の自動参戦条項が松岡によって骨抜きにされていたことを知らず、対日警戒感をいっそう強めた。[25][注釈 1]

条約締結を知った駐日アメリカ大使ジョセフ・グルーは日米両国の友好関係継続は「絶望」になったとみなし、「これは、過去に私が知っていた日本ではない」と嘆いた。イギリスは10月に閉鎖される予定だった援蒋ビルマルートの継続を通知した。中国国民党との和平交渉桐工作も中止が命令された[26]

アメリカが自動参戦条項の実態を知ったのは、終戦後の1946年に、連合国軍に抑留されたオットとスターマーを尋問した時と見られている[27]
同盟拡大の動き

1940年11月にハンガリールーマニアスロバキア独立国が、1941年(昭和16年)3月にはブルガリア、6月にはクロアチア独立国が軍事同盟に加盟した。またユーゴスラビアも1941年3月末に[10]しているが、加盟に反対する国軍がクーデターを起こし、親独政権が崩壊した結果、加盟は取り消されている。さらに1941年11月にはデンマークも加盟した。

また枢軸国の一員となったフィンランドは1940年8月にドイツと密約を、やはり枢軸国として名を連ねたタイも1941年12月日本と日泰攻守同盟条約をそれぞれ結んだが三国同盟には加盟しなかった。満州国は三国同盟に加盟しなかったものの、軍事上は日本と一体化していた。また防共協定に加盟したスペインフランコ政権)も三国同盟には加わらなかったが、戦争の前半期においては協力的な関係を持った(第二次世界大戦下のスペイン)。

ドイツとソ連の間では重大な動きがあった。1940年11月15日、ソ連のモロトフ外相は駐ソ・ドイツ大使をクレムリンに招き、ソ連は「日独伊ソ四国同盟」を締結する準備があると告げた[28]。条件は、ドイツ軍のフィンランドからの撤退、ソ連ブルガリア協定の締結、ボスポラスとダーダネルス両海峡における海軍基地建設のための長期借地権、北サハリンにおける日本の石炭・石油採掘権の放棄だった[28]。スターリンは四国同盟の調印を了承していたが、ソ連侵攻を考えていたヒトラーは返答しなかった。スターリンは最後まで四国同盟締結の希望を失わず[29]、ドイツ軍の奇襲を許してしまった。

松岡外相は三国同盟にソ連も参加させた四国によるユーラシア枢軸構想(四国連合構想)によってアメリカに対抗しようと考えていた。松岡はそのため1941年3月から独・ソ・伊三国を歴訪し、それぞれの指導者を歴訪した。この結果日ソ間で結ばれたのが日ソ中立条約である。リッベントロップも同じような構想を抱いていた。イタリアは既に1933年に伊ソ友好中立不可侵条約を結んでいた[30]。しかし日伊に通告なく始められた独ソ戦によってその構想は消えてしまった。近衛は、独ソ戦によって三国同盟の意味が無くなったとして同盟を破棄することも考えたが、陸軍の反発を恐れて結局この考えを公に提起することは無かった[31]。松岡は直ちに対ソ攻撃するよう主張したが、陸軍内部ではソ連の敗北が明らかになってから参戦する「熟柿論」が台頭したため、結局参戦を見合わせた。
同盟の実態

条約の条文に拠れば、いずれか1か国が現在戦争に関係していない国から攻撃を受けた場合にのみ相互援助義務が生じる。このため、1941年6月22日未明に独ソ戦が始まった後の1941年7月には、日本はドイツに呼応して挟撃する動き(関東軍特種演習)を見せたものの結局はソビエト連邦と中立関係を保った。

一方、日本が1941年12月8日に英米と開戦した後、相互援助義務は生じないにもかかわらず、ヒトラーとムッソリーニは12月11日にアメリカに対して宣戦布告した。その後日独伊3国によって、日独伊単独不講和協定(1941年12月11日締結、17日公布)が締結され、さらに翌年1月18日には共通の戦争指導要綱に関して日独伊新軍事協定も結ばれて同盟関係は強化された。連合国側も同様に1月1日に連合国共同宣言を発し、世界は二大同盟による戦争に突入した。

しかし合同幕僚長会議などを設置し緊密に連絡を取り合っていた連合国に対し、枢軸国では戦略に対する協議はほとんど行われなかった。対ソ宣戦、対米宣戦の事前通知は行われなかった。日独伊共同作戦についても、後述のように日本・ドイツや日本・イタリアの海軍作戦こそ行われ成功したが、両国本土から数千キロ離れた日本と両国の陸空軍の共同作戦は、関係が保たれている間一度として行われなかったことからみて、法律上の「同盟」ではなく、あくまで「相互援助」であった事実がわかる。


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