日独伊三国軍事同盟
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イタリアの経済状態は貧弱であり、軍部は参戦に否定的であり、ムッソリーニも「日本が日中戦争に勝利する1942年」[15] までは戦争はできないと判断していた[16]。しかし戦争においてドイツが優勢になると、ムッソリーニは枢軸側での参戦に傾いていった。海軍は日本からのゴムとタイヤの輸入に期待を示していたが[16]ガレアッツォ・チャーノ外相や陸軍にとって日本は余りに遠すぎ、期待を持てない相手であった[16]
第一次交渉

1936年11月に日独防共協定が締結された後、中華民国を援助する英米を牽制する目的と、独伊の中華民国への武器売却を完全に止めさせるために、軍事同盟への発展を唱える動きがあった。

特に駐独大使大島浩、駐伊大使白鳥敏夫は熱心で、同盟案に参戦条項を盛り込むべきと主張し、独伊政府にも参戦の用意があると内談していた。1938年7月に開催された五相会議において同盟強化の方針が定まり、1939年3月の会議で決定された。この時平沼騏一郎首相が同盟強化案を昭和天皇に奏上しているが、参戦条項は盛り込まないこと、大島・白鳥両大使が暴走すれば解任することなどを確認している[17]

しかしドイツは参戦条項を盛り込むべきと要求。これに陸軍内部からも呼応する声が多く、陸軍大臣板垣征四郎以下陸軍主流は同盟推進で動いた。一方英米協調派が主流を占めた海軍には反対が多く、海軍大臣米内光政以下、次官の山本五十六、軍務局長の井上成美は特に「条約反対三羽ガラス」と条約推進派(親独派)から呼ばれていた。また軍令部総長として形の上では海軍の最高権威者だった伏見宮博恭王をはじめ、前海相の永野修身、元首相・海相の岡田啓介、さらに小沢治三郎鈴木貫太郎など、陸軍でも石原莞爾辰巳栄一などが条約締結に反対していた。その他内大臣湯浅倉平、外相の有田八郎、蔵相の石渡荘太郎元老西園寺公望も反対派だった。そもそも昭和天皇が参戦条項には反対しており、5月9日に参謀総長閑院宮載仁親王が参戦条項を認めてもよいという進言を行った際には明確に拒否している[18]。しかし5月に第一次ノモンハン事件が勃発し、その最中の8月27日に独ソ不可侵条約が締結されると平沼内閣は総辞職し、三国同盟論も一時頓挫した。平沼の後の阿部内閣米内内閣では三国同盟案が重要な課題となることはなかった。
同盟締結同盟締結を記念してベルリンの日本大使館に掲げられた三国の国旗(1940年9月)

1940年になってフランスが敗北し、ドイツが俄然有利になると三国同盟の締結論が再び盛り上がってきた。陸軍ではこの「バスに乗り遅れるな」という声が高まり、本国が敗北し亡命政府の統治下となったオランダ領インドネシアや、イギリス領マレー半島を確保しようとする「南進論」の動きが高まった。陸軍首脳は親英米派の米内内閣倒閣に動き、近衛文麿を首班とする第2次近衛内閣が成立した。陸軍は独伊との政治的結束などを要求する「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」案を提出し、近衛もこれを承認した。近衛内閣には外相として松岡洋右が入閣したが、松岡は日・独・伊・ソ4か国同盟を主張していた。一方、農相の石黒忠篤らは反対派だった。9月5日には吉田善吾が病気を理由に海相を辞任し、後任に及川古志郎が就任した。

9月7日にはドイツから特使ハインリヒ・スターマーが来日し、松岡との交渉を始めた。スターマーはヨーロッパ戦線へのアメリカ参戦を阻止するためとして同盟締結を提案し、松岡も対米牽制のために同意した。松岡は南進論を選んだ際にアメリカが対日戦を考える可能性は高く、同盟を結んでも阻止できる確率は「五分五分」と見ていたが、現在のままでは米英のいいなりになると主張、同盟締結を強硬に主張した。近衛もほぼ同意見で、9月13日の四相会議、14日の大本営政府連絡会議、16日の閣議を経て同盟締結の方針が定まった[19]。しかし一方で松岡は、条約が想定しているドイツ・アメリカ戦争について、日本が自動的に参戦することを避けようとしていた。松岡と自動参戦の明記を求めるスターマーの交渉の結果、条約本文ではなく交換公文において「第三条の対象となる攻撃かどうかは、三国で協議して決定する」こととなり、自動参戦条項は事実上空文化した[20]。及川海軍大臣も近衛・松岡・木戸らの説得により条約締結賛成にまわった。及川が述べた賛成理由は「これ以上海軍が条約締結反対を唱え続けることは、もはや国内の情勢が許さない、ゆえに賛成する」という消極的なものだった。また及川とともに松岡らの説得を受けた海軍次官の豊田貞次郎は、英独戦への参加義務や、米独戦への自動参戦義務もないことで、「平沼内閣時に海軍が反対した理由はことごとく解消したのであって、(三国同盟が)できたときの気持ちは、他に方法がないということだった」と回想している[21]

9月15日に海軍首脳会議が開かれたが、阿部勝雄軍務局長が経過を報告し終わると、伏見宮軍令部総長が「ここまできたら仕方ないね」と発言、大角岑生軍事参議官が賛成を表明、それまで同盟に反対していた山本五十六連合艦隊司令長官は「条約が成立すれば米国と衝突するかも知れない。現状では航空兵力が不足し、陸上攻撃機を二倍にしなければならない」と発言して会議は終わった[22]

同盟締結の奏上を受けた昭和天皇は「今しばらく独ソの関係を見極めた上で締結しても遅くないのではないか」と危惧を表明したが、近衛首相は「(ドイツを)信頼致してしかるべし」と奉答した。天皇は続いて「アメリカと事を構える場合に海軍はどうだろうか。海軍大学の図上演習ではいつも対米戦争は負けると聞いた」と、戦争による敗北の懸念を伝えたが、近衛は日露戦争の際に伊藤博文首相が「万一敗北に至れば単身戦場に赴いて討ち死にする」と語ったことを引き合いに出し、及ばずながら誠心奉公すると回答した。これを近衛から伝え聞いた松岡や中野正剛らは号泣したという。ただし伊藤の話は金子堅太郎から近衛が聞いたというもので、西園寺公望はそもそも疑わしいと見ていた[23]。昭和天皇は調印三日前に木戸幸一内大臣に、三国同盟は「日英同盟の時のようにただ慶ぶというのでなく、万一情勢の推移によっては重大な危局に直面するのであるから、親しく賢所に参拝して報告するとともに、神様のご加護を祈りたい」と話したという[24]

9月19日の第三回御前会議原嘉道枢密院議長は「…本条約は米国を目標とする同盟条約で、これを公表することにより、米国の欧州戦線への参戦を阻止しようとする独伊の考えである。米国は最近、英国に代り東亜の番人を以て任じ、日本に対し圧迫を加えているが、なお日本を独伊側に加入せしめないため、かなり手控えているだろう。然るにこの条約発表により、日本の態度が明白となれば、日本に対する圧迫を強化し、極力蒋介石を援助して日本の事変遂行を妨ぐるだろうし、又、独伊に対し宣戦していない米国は、日本に対しても経済圧迫を加え、日本に対し石油、鉄を禁輸する共に、日本より物資を購入せず、長期にわたり日本を疲弊、戦争に堪えざるに至らしむる如く計るだろうと考える…」と質問した。またヨーロッパ戦線にアメリカが参戦した際に日本が参戦しなければならないのかという議論もあったが、松岡は手続き上の問題が残されていると言って押し切り、同盟締結は正式に決定された。

9月26日の枢密院では深井英五顧問官は「条約の前文には、万邦をしてその所を得しむとあるが、ヒットラーは嘗て『他の民族に対し弱肉強食は天地の公道なり』と揚言しており、思想観念が相反するではないか」と述べ、石塚英蔵顧問官は「ドイツ国との条約は過去の経験上、十全を期し難し、政府は如何にして彼の誠意を期待し得るか」と警告し、石井菊次郎は「由来、ドイツと結んで利益を受けた国はない。…ヒットラーも危険少なからぬ人物である。わが国と防共協定を結んでおきながら、それと明らかに矛盾する独ソ不可侵条約を結んだ…」と述べた。しかし結果的には承認された。

9月27日、東京の外相官邸とベルリンの総統官邸において調印が行われた。
日独伊三国間条約の原文日独伊三国同盟条約調印書(日本語版)

条約原文は英文テキストでこれにベルリンで署名調印され、約3週間後に日本で印刷されたテキストを駐日ドイツ大使館クーリエに依りドイツに運ばれ改めて署名調印された。現在見られるのは後者の方で 外務省外交史料館 に展示されている。

条約調印式はベルリンで行われ、ドイツ外相ヨアヒム・フォン・リッベントロップ、イタリア外相ガレアッツォ・チャーノ、日本からは特命全権大使来栖三郎が条約に調印した。


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