日独伊三国軍事同盟
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第一次世界大戦中のイタリアはアルバニア南部を占領してオーストリア=ハンガリー帝国の手に渡ることを防ぎ、1917年からヴロラ戦争(英語版)が1920年に起きるまでの間にはそこへイタリア保護領アルバニア (1917-1920)(英語版)を成立させた[12]

しかし日本もイタリアも1920年代後半の大恐慌以降、これらの植民地を持ちながらも経済不況にあえいでいて(例えば朝鮮は併合したものの、運営は赤字であった)、経済不況を救う鍵を軍事力による更なる領土拡大に求めていた。

イタリアでベニート・ムッソリーニとともに政権を握ったファシスト党は、帝国の規模を拡大して領土回復主義者の要求(未回収のイタリア)を満たそうとした。日本も五・一五事件二・二六事件など、度重なる軍事クーデター政党政治家暗殺により軍部の発言力が強くなっていた。またドイツは、第一次世界大戦で30年近く保持していた各地の植民地をすべて失い、経済不況を救う鍵を同じく領土拡大に求めていた。
締結に至る経緯

日独伊三国同盟への動きは、1938年夏から1939年夏までの日独伊防共協定強化への動きと、1940年夏から三国同盟締結に至るまでの動きの二つに分けられる。前者は対ソ同盟を目指したもので、独ソ不可侵条約の締結により頓挫した。後者の交渉ではソ連を加えた4か国による対米同盟を日独外相は望んでいたが、全ての関係者の思惑が一致したわけではなかった。ザ・ブリッツの動向
日本側の利害関係

既に日中戦争で莫大な戦費を費やしていた日本は、中華民国を支援するイギリスとアメリカと鋭く対立していた。日本政府は日独伊防共協定を強化してドイツと手を結び、イギリスとアメリカを牽制することで、日中戦争を有利に処理しようとしていた。また日本がアジア太平洋地域の英米仏蘭の植民地を支配することを、事前にドイツに了解させる意図もあった。
ドイツ側の利害関係

ドイツ側の狙いはアメリカがイギリス側で参戦するなら、アメリカは日本とドイツに対する二正面作戦のリスクを冒すことになるという威嚇効果を得て、アメリカ参戦を防ぐことにあった[11]

反英親ソの外相リッベントロップは三国同盟にソ連を加えた四国同盟に発展させ、巨大反英ブロックを形成する構想をもっていたが、1940年秋にバルカン半島フィンランドを巡って独ソ関係が悪化しつつあり、1940年11月12日のモロトフ訪独も平行線で終わり、ヒトラーは対ソ作戦の準備を開始することになる[13]
イタリア側の利害関係

かつてオーストリア問題を巡ってドイツと対立していたイタリアは、英仏の警告を振り切って行ったエチオピア侵攻によって、国際連盟を脱退するなど孤立を深めていった。それ以降イタリアはドイツに接近し、1936年のスペイン内戦ではともにフランシスコ・フランコを支援し、10月にいわゆるベルリン・ローマ枢軸構想を掲げた。また軍部が日本との間に軍事協力を模索する動きもあった[14]

一方でイタリアと英仏の緊張緩和も行われ、しだいに英仏・伊関係は修復されていったが、1939年4月にアルバニアへの侵攻・併合を行うと、再びイタリアの立場は孤立化した。これに対抗するべく5月には独伊軍事同盟条約(鋼鉄協約)に調印している。第二次世界大戦勃発は、ムッソリーニにとっては誤算だった。イタリアの経済状態は貧弱であり、軍部は参戦に否定的であり、ムッソリーニも「日本が日中戦争に勝利する1942年」[15] までは戦争はできないと判断していた[16]。しかし戦争においてドイツが優勢になると、ムッソリーニは枢軸側での参戦に傾いていった。海軍は日本からのゴムとタイヤの輸入に期待を示していたが[16]ガレアッツォ・チャーノ外相や陸軍にとって日本は余りに遠すぎ、期待を持てない相手であった[16]
第一次交渉

1936年11月に日独防共協定が締結された後、中華民国を援助する英米を牽制する目的と、独伊の中華民国への武器売却を完全に止めさせるために、軍事同盟への発展を唱える動きがあった。

特に駐独大使大島浩、駐伊大使白鳥敏夫は熱心で、同盟案に参戦条項を盛り込むべきと主張し、独伊政府にも参戦の用意があると内談していた。1938年7月に開催された五相会議において同盟強化の方針が定まり、1939年3月の会議で決定された。この時平沼騏一郎首相が同盟強化案を昭和天皇に奏上しているが、参戦条項は盛り込まないこと、大島・白鳥両大使が暴走すれば解任することなどを確認している[17]

しかしドイツは参戦条項を盛り込むべきと要求。これに陸軍内部からも呼応する声が多く、陸軍大臣板垣征四郎以下陸軍主流は同盟推進で動いた。一方英米協調派が主流を占めた海軍には反対が多く、海軍大臣米内光政以下、次官の山本五十六、軍務局長の井上成美は特に「条約反対三羽ガラス」と条約推進派(親独派)から呼ばれていた。また軍令部総長として形の上では海軍の最高権威者だった伏見宮博恭王をはじめ、前海相の永野修身、元首相・海相の岡田啓介、さらに小沢治三郎鈴木貫太郎など、陸軍でも石原莞爾辰巳栄一などが条約締結に反対していた。その他内大臣湯浅倉平、外相の有田八郎、蔵相の石渡荘太郎元老西園寺公望も反対派だった。そもそも昭和天皇が参戦条項には反対しており、5月9日に参謀総長閑院宮載仁親王が参戦条項を認めてもよいという進言を行った際には明確に拒否している[18]。しかし5月に第一次ノモンハン事件が勃発し、その最中の8月27日に独ソ不可侵条約が締結されると平沼内閣は総辞職し、三国同盟論も一時頓挫した。平沼の後の阿部内閣米内内閣では三国同盟案が重要な課題となることはなかった。
同盟締結同盟締結を記念してベルリンの日本大使館に掲げられた三国の国旗(1940年9月)

1940年になってフランスが敗北し、ドイツが俄然有利になると三国同盟の締結論が再び盛り上がってきた。陸軍ではこの「バスに乗り遅れるな」という声が高まり、本国が敗北し亡命政府の統治下となったオランダ領インドネシアや、イギリス領マレー半島を確保しようとする「南進論」の動きが高まった。陸軍首脳は親英米派の米内内閣倒閣に動き、近衛文麿を首班とする第2次近衛内閣が成立した。陸軍は独伊との政治的結束などを要求する「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」案を提出し、近衛もこれを承認した。近衛内閣には外相として松岡洋右が入閣したが、松岡は日・独・伊・ソ4か国同盟を主張していた。一方、農相の石黒忠篤らは反対派だった。9月5日には吉田善吾が病気を理由に海相を辞任し、後任に及川古志郎が就任した。

9月7日にはドイツから特使ハインリヒ・スターマーが来日し、松岡との交渉を始めた。スターマーはヨーロッパ戦線へのアメリカ参戦を阻止するためとして同盟締結を提案し、松岡も対米牽制のために同意した。


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