日清戦争
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第二軍の第一波が遼東半島に上陸した24日、陽動部隊[注釈 31]が安平河口から、21時30分に架橋援護部隊が義州の北方4km地点から、鴨緑江の渡河を始めた。翌25日6時、予定より2時間遅れで、本隊通過用の第一・第二軍橋が繋がった(ただし第二軍橋が脆弱で、臼砲6門と糧食の通行が後回しにされた)。6時20分、野砲4門が虎山砲台(九連城から4.5km)に砲撃を開始し、歩兵の渡河が続いた。清軍に強く抵抗されたものの、虎山周辺の抵抗拠点を占領した(日本軍の戦死34人、負傷者115人)。翌26日早朝、第一軍は、九連城を総攻撃するため、露営地を出発した。しかし、清軍が撤退しており、無血入城となった。

その後、第三師団は、鴨緑江の下流にそって進み、27日に河口の大東溝を占領し(30日、兵站司令部を開設)、11月5日補給線確保のために黄海沿岸の大狐山を占領した(11日、兵站支部を開設)。第五師団は、糧食の確保後に内陸部に進み、要衝鳳凰城攻略戦を開始した。10月29日、騎兵ニ箇小隊が鳳凰城に接近すると、城内から火が上がっていた。14時50分に騎兵は城内に突入し、清軍撤退を確認した。このため、主力部隊による攻撃が中止された。
東学農民軍の再蜂起と鎮圧

朝鮮では、東学が戦争協力拒否を呼びかけたこともあり、軍用電線の切断、兵站部への襲撃と日本兵の捕縛、殺害など反日抵抗が続いた。10月9日、親日政権打倒を目指す「斥倭斥化」(日本も開化も斥ける)をスローガンに、全?準率いる東学農民軍が再蜂起した[64]。大院君は、鎮圧のために派兵しないよう大鳥公使に要請したものの、将来ロシアの軍事介入を警戒した日本は、11月初旬に警備用の後備歩兵独立第十九大隊を派兵した。鎮圧部隊は、日本軍2,700人と朝鮮政府軍2,800人、各地の両班士族や土豪などが参加する民堡(みんぽ)で編成された。11月下旬からの公州攻防戦で勝利し、東学農民軍を南方へ退け、さらに朝鮮半島の最西南端海南珍島まで追いつめて殲滅(せんめつ)した。なお、5か月間の東学農民軍の戦闘回数46回、のべ134,750人が参加したと推測されている[65]
講和期
冬季作戦大方針の変更と海城攻防戦

10月8日イギリスが、翌日イタリアが講和の仲裁を、また11月22日清が講和交渉を申し入れてきた[66]。講和を意識する伊藤首相と陸奥外相は、山海関台湾威海衛の攻略など大きな戦果が必要と考えていた。また大本営は、1)渤海湾北岸の上陸予定地点が不結氷点、2)威海衛にこもる北洋艦隊一掃の2条件が揃えば、8月31日に定めた「冬季作戦大方針」を変更し、冬季の直隷決戦を考えていた。結局のところ、清の占領地で第一軍と第二軍が冬営するとともに(やがて酷寒に苦しむ)、前者が海城攻略作戦を、後者が威海衛攻略作戦(山東作戦)を実施することが決まった。

12月1日、第一軍司令部は、第三師団長桂太郎陸軍中将に海城攻略を命じた。第三師団は、凍結した坂を駄馬が超えられない等、冬の行軍で苦しんだものの、13日に海城を占領した。しかし、そこからが問題であった。海城は、北西15kmに牛荘遼河河口の港町)が、東北70kmに遼陽が、南西60kmに蓋平がある陸上交通の要衝で、清にとっても重要な拠点であった。このため、翌年2月27日まで ⇒4回の攻防戦と、小ぜりあいが続くことになる。

12月30日着の大本営訓令により、海城の第三師団(第一軍)支援として、第二軍のうち山東作戦に参加しない第一師団から混成第一旅団(歩兵第一旅団が基幹)が編成・抽出され、蓋平方面に進出させることになった(翌年1月10日に蓋平占領)。その後、直隷決戦または講和を踏まえた第一軍による台湾攻略という大本営の考えと異なり、第一軍が第二軍を誘う形で新作戦(遼河平原での掃討作戦)が動き始める。
陸海軍共同の山東作戦(北洋艦隊の降伏)1895年(明治28年)に戦勝祝賀を行う慶應義塾大学の炬火行列大運動会(カンテラ行列)「威海衝陥落北洋艦隊提督丁汝昌降伏ノ図」 右田年英画 1895年(明治28年)。外国軍顧問団を連れて降伏する丁を描いた絵。ただし、丁は降伏せずに自殺しており、この絵は想像で描かれたもの。「平壌大捷清将生捕之図」 右田年英画 1894年10月。「提督丁汝昌於官宅自殺図」 水野年方画 1895年(明治28年)詳細は「威海衛の戦い」を参照

12月14日、大本営が山東作戦の実施を決定した。第二軍司令部・連合艦隊司令部との調整後、翌年1月8日に実施計画が固まった。作戦の目的は、直隷決戦に向けて制海権を完全に掌握するため、威海衛湾に立てこもる北洋艦隊の残存艦艇と、海軍基地の破壊にあった。20日、4艦の砲撃援護の下、山東半島先端に海軍陸戦隊等が上陸し、栄城湾に歩兵第16連隊等が上陸を始めた(26日夜、最後の輸送船4隻が到着)。26日、第二師団第六師団が並進を開始した(目標地点まで移動距離、約60km)。30日、陸戦用の防御設備があったにもかかわらず、清軍の抵抗が強くなかったため、半日で威海衛湾の南岸要塞を制圧した(日本軍の戦死54人、負傷152人)。陸上での清軍の抵抗は、2月1日で終わり、翌日、日本軍は、北岸要塞などを無血占領し、湾の出入口にある要衝の劉公島と日島、停泊中の北洋艦隊を包囲した。なお1月30日、占領砲台を視察していた歩兵第11旅団長大寺安純陸軍少将が敵艦の砲撃を受け、戦傷死した。

劉公島・日島の守備隊と北洋艦隊の残存艦艇は、孤立しても健在であり、旗艦「定遠」の30センチ砲などで抗戦を続けた。しかし、水雷艇による魚雷攻撃に加え、日本艦隊の艦砲および対岸から日本軍に占領された砲台の備砲が砲撃を続け、清側の被害が大きくなると、清の陸兵とお雇い外国人は、北洋艦隊の提督丁汝昌に降伏を求めた。2月11日、降伏を拒否していた丁提督は、北洋通商大臣李鴻章に打電後、服毒自決。14日の両軍の合意に基づき、17日に清の陸海軍将兵とお雇い外国人が解放された。
遼河平原の作戦(遼東半島全域の占領)

2度目の海城防衛戦が終わった1月下旬から、第一軍司令部と大本営の間で、新作戦を巡る駆引きが生じた[67]。前者は、遼陽営口付近の清軍掃討を求めており、後者は、その作戦が直隷決戦を妨げかねない、と拒否していた。最終的に両者の譲歩により、掃討作戦の範囲を縮小して3月上旬に作戦を完了することが決まった。3月2日、第五師団は、前衛が鞍山站に進出したものの、すでに清軍が撤退しており、撃破できなかった。三方を包囲されていた海城の第三師団は、2月28日死傷者124人を出しながら主力部隊が北方に進撃し、3月2日鞍山站に進出した。4日、合流した第三・第五師団が牛荘を攻撃し、退路を断たれた清軍と市街戦になったものの、翌日午前1時頃までに掃討戦が終わった。

2月21日、太平山の戦闘で第一師団(第二軍)がダメージを負っていた(戦死29人、負傷285人、凍傷4,188人)。3月4日、再び清軍が動いたものの、第一師団の反撃で後退した。6日、第一師団は、追撃戦に移り、翌7日、抵抗をほとんど受けることなく、営口を占領した(西洋列強の領事館と外国人居留地があるため、両軍とも市街戦に消極的)。9日、日清戦争最大の三箇師団が参加し、遼河対岸の渡河地点 ⇒田荘台を攻撃した(清軍2万人、砲40門)。一時間ほどの砲撃戦で戦況の帰趨(きすう)が決まり、田荘台の攻略に成功した。しかし、攻略直後に第一軍司令部は、全軍撤退と清軍の反攻拠点にならないよう「田荘台焼夷」とを命じ、全市街を焼き払わせた。

なお作戦完了により、第五師団と後備諸隊が西から営口、牛荘、鞍山站、鳳凰城九連城までの広大な地域の守備にあたり、残りの六箇師団と臨時第七師団(屯田兵団の再編)で直隷決戦の準備が始まった。3月16日、参謀総長小松宮彰仁親王陸軍大将が征清大総督に任じられ、26日、第二軍司令部が大本営の新作戦命令を受領した。その後、山海関東方の洋河口への上陸準備のため、近衛師団と第四師団が広島から遼東半島に移動した(後記の通り当時、下関で講和交渉が行われており、直隷決戦の具体的準備は、日本側の大きな切り札であった)。
台湾海峡の要衝、澎湖列島の占領

台湾取得の準備として陸海軍は、共同で台湾海峡にある海上交通の要衝、澎湖列島(馬公湾が天然の良港)を占領することとした[注釈 32]。南方派遣艦隊(司令長官伊東祐亨海軍中将)の旗艦吉野が座礁し、予定より遅れたものの、3月23日、混成支隊[注釈 33]が澎湖列島に上陸を始めた。海軍陸戦隊が砲台を占領するなど、26日に作戦が完了。ただし、上陸前から輸送船内でコレラが発生しており、しかも島内は不衛生で飲料水が不足した。そのため、上陸後にコレラが蔓延し、陸軍の混成支隊6,194人(うち民間人の軍夫2,448人)のうち、発病者1,945人(908人)、死亡者1,257人(579人)もの被害がでた。同支隊のコレラ死亡率20.3% (23.7%)[68]
休戦・講和1895年4月17日に調印された下関条約詳細は「下関条約」を参照


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