日清戦争
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朝鮮王朝の臣下は多くが逃走し、国王の高宗は身を潜めていたところを日本軍に保護された[45][46]。大鳥は宮廷に参内して、高宗から「(国王である自分は)日本の改革案に賛同していたが、袁世凱の意向を受けた閔氏一族によって阻まれていた」と釈明し、改革を実現するために興宣大院君に国政と改革の全権を委任すること提案に同意した[47]。同日のうちに大院君は景福宮に入って復権を果たしたが、老齢の興宣大院君は時勢に疎く政務の渋滞が見られたため、日本は金弘集への実権移譲を求め、大院君も了承した[48]。日本政府は朝鮮政府に対して牙山に駐屯する清軍を撤退させることを要請を行った[49]が、朝鮮王朝は清国の報復に怯えて清国との絶縁などの日本の要請を拒み続けており、大鳥圭介の強硬な態度に屈して日本の要請に応じたが、その内容は大鳥を落胆させる消極的なものであった[50]。しかしながら、清軍を朝鮮から退去させるために日本軍が攻撃する名分を得ることができたため、日本は戦争の開戦準備を始める。2日後の25日に豊島沖海戦が、29日に成歓の戦いが行われた後、8月1日に日清両国が宣戦布告をした[注釈 24]


なお後日、開戦前の状況について陸奥宗光は、次のように回想した。外交にありては被動者〔受け身〕たるの地位を取り、軍事にありては常に機先を制せむ。 ? 『蹇蹇録』

もっとも、一連の開戦工作について明治天皇は、「朕の戦争に非ず」と漏らしたと伝えられている(しかし広島大本営で精勤し、後年その頃を懐かしんだ)[51]。また、開戦前夜の海軍大臣西郷従道海軍中将について次のように伝えられている[52]。北洋艦隊の優勢なるを憚(はばか)るが為に躊躇(ちゅうちょ)したり。 ? 外務次官林董の回想録『後は昔の記』
豊島沖海戦・高陞号事件高陞号撃沈の場面を描いた絵詳細は「豊島沖海戦」を参照

清に駐在する領事と、武官から清軍増派の動きを知った大本営は[53]7月19日編成されたその日に連合艦隊に対し、1)朝鮮半島西岸の制海権と仮根拠地の確保、2)兵員増派を発見しだい輸送船団と護衛艦隊の「破砕」を指示した[54]。25日、豊島沖で日本海軍第1遊撃隊(司令官坪井航三海軍少将、「吉野」「浪速」「秋津洲」)が清の軍艦「済遠」「広乙」を発見し、海戦が始まった。すぐに「済遠」が逃走を計ったため、直ちに「吉野」と「浪速」は追撃した。その途上、清の軍艦「操江」と高陞号(英国商船旗を掲揚)と遭遇した。高陞号は、朝鮮に向けて清兵約1,100人を輸送中であった。坪井の命により、「浪速」艦長東郷平八郎海軍大佐が停船を命じて臨検を行い、拿捕しようとした。しかし、数時間に及ぶ交渉が決裂したため、東郷は、同船の拿捕を断念して撃沈に踏み切った(高陞号事件)。その後、英国人船員ら3人を救助し、清兵約50人を捕虜にした。豊島沖海戦で日本側は死傷者と艦船の損害がなかったのに対し、清側は「済遠」「広乙」が損傷し、「操江」が鹵獲(ろかく)された。イギリス商船旗を掲揚していた高陞号が撃沈された事で、一時期イギリス国内で反日世論が沸騰した。しかし、イギリス政府が日本寄りだった上に、国際法の権威ジョン・ウェストレーキトーマス・アースキン・ホランド博士によって国際法に則った処置であることがタイムズ紙を通して伝わると、イギリス国内の反日世論は沈静化した。
成歓の戦い成歓の戦いから万里倉に凱旋し居留民や朝鮮重臣などの歓迎を受ける混成旅団。1894年8月5日。詳細は「成歓の戦い」を参照

7月24日、豊島沖海戦の直前、清の増援部隊1,300人が上陸し、葉志超提督(中将に相当)率いる牙山県と全州の清軍は、3,880人の規模になっていた[55]。混成第九旅団長大島義昌陸軍少将は、南北から挟撃される前に「韓廷〔朝鮮政府〕より依頼の有無に関せず、まず牙山の清兵を掃討し、迅速帰還し北方の清兵に備ふる」〔カタカナを平仮名に書き換え、読点を入れた〕ため、25日から26日にかけ、漢城郊外の龍山から攻撃部隊を南進させた(兵力:歩兵15箇中隊3,000人、騎兵47騎、山砲8門。なお従軍記者14社14人[注釈 25])。

日本軍の南下を知った清軍は、退路のない牙山での戦闘を避け、そこから東北東18kmの成歓駅周辺に、聶士成率いる主力部隊を配置した(5営2,500人・野砲6門)。さらに、その南の公州に葉提督が1営500人と待機した。29日深夜、日本軍は、左右に分かれ、成歓の清軍に夜襲をかけた。午前3時、右翼隊の前衛が待ち伏せていた偵察中の清軍数十人に攻撃され、松崎直臣陸軍大尉ほかが戦死した(松崎大尉は日本軍初の戦死者)。不案内の上、道が悪い土地での雨中の夜間行軍は、水田に落ちるなど難しく、各部隊が予定地点に着いたのは、午前5時過ぎであった。午前8時台、日本軍は成歓の抵抗拠点を制圧した。さらに午後3時頃、牙山に到達したものの、清軍はいなかった。死傷者は、日本軍88人(うち戦死・戦傷死39人)、清軍500人前後。旅団は8月5日、本部のあったソウル城外南西の万里倉に凱旋、大鳥圭介公使や居留民、朝鮮重臣などの歓迎を受けた[56]。成歓・牙山から後退した清軍はおよそ1カ月をかけて移動し、平壌の友軍への合流を果たした。

なお、混成第九旅団は、派兵が急がれたため、民間人の軍夫(日本人のみ)を帯同することも、運搬用の徒歩車両(一輪車・大八車)を装備することもなく、補給に大きな問題があった。このため、牙山への行軍では、日本人居留民のほか、現地徴発の朝鮮人人夫2,000人と駄馬700頭で物資を運搬するはずであった。しかし、なじみのない洋式の外国軍に徴発された人夫(馬)の逃亡が少なくなく、とくに歩兵第21連隊第三大隊は「みな逃亡して、ついに翌日の出発に支障を生じ」たため、7月27日早朝、同大隊長古志正綱陸軍少佐が引責自刃した。
展開期
大日本大朝鮮両国盟約朝鮮人兵士と中国人捕虜

8月26日、日本は、朝鮮と大日本大朝鮮両国盟約を締結した[57]。朝鮮は、日清戦争を「朝鮮の独立のためのもの」(第一条)とした同盟約に基づき、国内での日本軍の移動や物資の調達など、日本の戦争遂行を支援し、また自らも出兵することになった[58]
平壌の戦い平壌の戦い詳細は「平壌の戦い (日清戦争)」を参照

開戦前から朝鮮半島北方で混成第九旅団の騎兵隊が偵察任務に就いており、7月末「平壌に清軍1万人集結」との情報が大本営に伝えられた[59]。大本営は、30日に第五師団の残り半分に、8月14日第三師団に出動を命じた(ただし後日、第三師団は、大本営の指示で兵站部の編成が変更されたこともあり、結果的に先発隊(歩兵第18連隊が基幹)しか平壌攻略戦に参加できず)。8月中旬、漢城に到着した第五師団長野津道貫陸軍中将は、情勢判断の結果、朝鮮政府を動揺させないためにも、早期の平壌攻略が必要と判断した。第五師団が北進を開始した9月1日、同師団と第三師団その他で第一軍が編成された。12日、仁川に上陸した第一軍司令官の山縣有朋陸軍大将が第五師団宛に「第三師団の到着を待たず、従来の計画により、平壌攻撃を実行すべき」と指示した(カタカナを平仮名に書き換え、読点を入れた)。

李鴻章から、平壌に集結した清軍の総指揮を任されたのは、成歓の戦いで敗れた葉志超提督(中将相当)であった。9月7日、葉は、光緒帝の諭旨と李の督促を受け、7,000人の迎撃部隊(4将の部隊から抽出して編成)を南進させた。しかし同夜、「敵襲」との声で味方同士が発砲し、死者20人・負傷者100人前後を出して迎撃作戦が失敗した(後年、日清戦史を研究・総括した誉田甚八陸軍大佐は、分進合撃する日本軍への迎撃作戦について、少なくとも平壌の陥落時期を遅らせる可能性があったとした)。13日、葉は、包囲される前に撤退することを4将に計ったものの、奉天軍を率いる左宝貴が葉を監禁したため、清軍は4将が個々に戦うこととなる。

9月15日、予定通り日本軍の平壌攻略戦が始まった(ただし西側の師団長・直率部隊は攻撃に参加せず)。北東から前進予定の歩兵第十旅団長立見尚文陸軍少将に「午前8時前後ニハ平壌ニ於テ貴閣下ト握手シ……」と前日返信していた大島旅団長率いる混成第九旅団は、南東から平壌城・大同門の対岸近く(大同江右岸)まで前進したものの、右岸の堡塁と機関砲に阻止されて露営地に退く(戦死約140人、負傷約290人)等[注釈 26]、夕方近くになると戦況が膠着(こうちゃく)していた。しかし、徹底抗戦派の左宝貴が反撃に出て戦死したこともあり、午後4時40分頃、平壌城に白旗が立ち、休戦後に清軍が退却するとの書簡が日本軍に渡された。もっとも、傷病兵を除く清軍は、休戦前に平壌城から脱出し、替わって日本軍が入城した。

なお日本軍は、進軍を優先したため、この戦いでも糧食不足に悩まされ、最もよい混成第九旅団でさえ、常食と携行口糧それぞれ2日分で攻略戦に臨んだ(その後も補給に苦しみ、しばしば作戦行動の制約になる)[注釈 27]。糧食不足は、平壌で清軍のもの(第五師団の1か月分)を確保したことにより、当面解消された。
黄海海戦詳細は「黄海海戦 (日清戦争)」を参照連合艦隊旗艦松島


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