日清戦争
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しかし、新たに発見された防衛庁防衛研究所保存の同艦長の九月二十九日付け報告書の写しでは、測量及び朝鮮側官吏との面会などを目的に上陸を試み、ボートでの遡上中砲撃を受け、三日間の戦闘へと及んだ経緯がより詳細に記されている[20]
^ 半年後の8月(7月)、同条規の付録と貿易規則が定められ、規則第六則で米穀の輸出入が認められた。これによって朝鮮では、日本への米穀輸出が増加するとともに、米価高騰など食糧事情が悪化した。また、付録付属の往復書簡では、相互に無関税として関税自主権を否定したため(経済力で優位に立つ日本にとって有利)、日本の経済進出が容易になった。
^ 1881年(光緒7年)、清の北洋通商大臣李鴻章は、イリ地方の紛争に対して武力鎮圧を決断し、その行動の結果、自国に有利な条件でロシアとイリ条約を結んだ。そして同年、対朝鮮政策の所管を礼部から北洋通商大臣の直轄にかえ、翌1882年の壬午事変で派遣した部隊(3,000名)をそのまま朝鮮に駐留させた。加藤 (2009)、93-96頁。
^ 1881年末から朝鮮とアメリカの間で条約締結交渉が始まると、李鴻章と朝鮮の吏曹参議金允植が協議し、朝鮮側の条約草案が作成された。草案の第一条で「朝鮮は清朝の属国であり、内政外交は朝鮮の自主である。」とされ、岡本隆司がその清朝関係を「属国自主」と呼んだ。(岡本(2008), p. 76)
^ 1882年(明治15年)11月(光緒8年[[10月 (旧暦)|]])から山縣有朋の意を汲んだ井上馨は、外務省を通して朝鮮中立化に動いており、この日本側の構想は卓抜していた。しかし、朝鮮の従属化を望む清、条約の批准もまだで時期尚早とする西洋諸国の反応がよくなかった。そして外交上の進展がないまま日本は、甲申政変を迎えた。(岡本(2008), p. 125-128) 井上 (2010)。
^ 巨文島の占領についてイギリスは、朝鮮に通告せず、清(宗主国)の駐英外交官に伝えて了承を得ていた。もっとも、この外交官は、清にも朝鮮にも連絡をしなかった。また朝鮮は、日本から知らされるまでイギリス艦隊が巨文島に集結していることに気づかず、抗議など政治行動もとらなかった。しかし、李鴻章の警告書により、ようやく認識を改め、事態の収拾を図るものの、相手にされないなど効果がなかった。その後、清がイギリスとロシアの両者に働きかけ、前者による巨文島の占領が終わった(1885年4月 - 1887年3月)。呉 (2000)、152-154頁。
^ 1891年(明治24年)、ロシアがフランス資本などの資金援助を受けながら、シベリア横断鉄道の建設に着手した。この鉄道建設は、イギリスに大きな衝撃を与えた。やがて日本にも、危機感を抱かせることになる
^ 日清関係は天津条約で、清露関係は李鴻章・ラデュジェンスキーの秘密合意(相互不可侵)で結ばれており、清朝関係は「属国」と「自主」が拮抗していた。
^ 1877年西南戦争を乗り切ると、1880年代の陸軍の主任務は、「治安維持」から外的脅威に備える「国土防衛」に変質しつつあった。1880年代中頃、メッケルドイツ陸軍少佐が指導した参謀演習旅行では、敵の上陸部隊への反撃が主な想定であったとされ、また1890年に初めて実施された陸海軍連合大演習は、敵の侵攻・上陸部隊に対する迎撃を目的とした。戸部 (1998)、108-114頁。
^ たとえば、1878年(明治11年)末に参謀本部と監軍本部が設置されて以来の有事即応体制の完成との見解(桑田悦の説)。また陸軍の軍備計画では、師団制の採用に伴う部隊拡充のほか、海岸砲台と要塞構築にも重点が置かれていた。戸部 (1998)、111-112頁。
^ 一例として開戦前夜、海軍大臣西郷従道海軍中将は「北洋艦隊の優勢なるを憚るが為に躊躇したり」と伝えられている(外務次官林董の回想録『後は昔の記』)。戸高 (2011)、164頁。
^ 1873年(明治6年)1月に制定された徴兵令は、日清戦争までに大改正が3回あった。大改正の主眼は、徴兵の不公平感を緩和し、徴兵忌避を防止することにあった。また、一年志願制の導入など高学歴者に特例を設けた(当初、専門知識が必要な衛生兵養成のために導入され、その後、動員に不可欠な予備役将校の養成としても運用された)。戸田 (1998)、117-118頁。
^ 1890年(明治23年)の第一議会から1892年(明治25年)の第四議会まで、「富国強兵」か地租軽減など「民力休養」かが争点になっていた。しかし、1893年(明治26年)11月の第五議会では、排外的なナショナリズムにかかわる議論が高まった。悲願の条約改正が現実味を帯びる中、外国人の往来自由への嫌悪感、その自由な経済活動による輸入増加への警戒などを背景に、外国人の内地雑居への反対論が強くなったのである(条約励行、つまり「関税自主権回復を含む完全な条約改正でなければ、現状の不平等条約をそのまま維持」との主張で、まず領事裁判権(治外法権)撤廃から達成できそうな条約改正の大きな障害になっていた)。強硬的な外交(対外硬)に全体の論調が動いたものの、民党連合が分裂し、政府と対決する硬六派が形成された。硬六派は、衆議院解散後の1894年(明治27年)3月1日に行われた第3回総選挙でも、過半数を上回った。御厨 (2001)、270-277頁。
^ 5月17日、伊藤内閣弾劾上奏案が提出された。144対149の僅差で否決されたものの、自由党の迷走により、5月31日、微細な予算問題で提出されていた別の内閣弾劾上奏案が153対139で可決された。御厨 (2001)、277-279頁。
^ 5月27日か28日、代理公使の杉村から機密文書が届いていた。その内容は、朝鮮が「兵を支那に借り」て乱を鎮圧する動きがあり、万一に備え、出兵の可否を決めておくべきとの進言であった。31日、朝鮮は、清への援兵を決議した。翌6月1日、公文で朝鮮駐在の袁世凱に伝達しようとするものの、延着した(3日夜)。1日午後、代理公使の杉村は、「袁世凱いわく朝鮮政府は清の援兵を請いたりと」と打電した。(原田(2008), p. 56-58)(岡本(2008), p. 147-149)
^ たとえば、派兵決定の6月2日時点で新鋭艦の「吉野」は、鎮守府が置かれた4港の中で、朝鮮から最も離れた横須賀に停泊していた。また、主力艦として期待された松島型3隻のうち「松島」は、「千代田」とともに清の福建省沖を航行中であった。残る2隻のうち「厳島」は、大本営が設置された翌6日に修理が命じられており(工期60日)、「橋立」は、修理改造中であった(7月4日に整備も訓練も不十分なまま艦隊に編入された)。戸高 (2011)、110、164頁。
^ 開戦を主導した外務大臣陸奥宗光は、朝鮮の内政改革について次のように書き記した。余は固より朝鮮内政改革を以て政治的必要の外、何等の意味なきものとせり。亦毫も義侠を精神として十字軍を興すの必要を視ざりし。故に朝鮮内政改革なるものは、第一に我国の利益を主眼とするの程度に止め、之が為め敢て我利益を犠牲とするの必要なしとせり。且つ今回の事件として之を論ずれば、畢竟朝鮮内政の改革とは、素と日清両国の間に蟠結して解けざる難局を調停せんが為めに案出したる一箇の政策なりしを、事局一変して竟に我国の独力を以て之を担当せざるを得ざるに至りたるものなるが故に、余は初より朝鮮内政の改革其事に対して格別重きを措かず。 ? 陸奥 (1994) 、62頁。
^ 日本政府が、国民に伝えた宣戦の理由(清国ニ対スル宣戦ノ詔勅)の要旨は、次の通り。「そもそも、朝鮮は日本と日朝修好条規を締結して開国した独立の一国である。それにもかかわらず、清は朝鮮を属邦と称して内政干渉し、朝鮮を救うとの名目で出兵した。日本は済物浦条約に基づき、出兵して変に備えさせて朝鮮での争いを永久になくし、東洋全局の平和を維持しようと思い、清に協同して事に従おうと提案した。しかし清は様々な言い訳をしてこれを拒否した。日本は朝鮮の独立を保つため、朝鮮に改革を勧めて朝鮮もこれを肯諾した。清はそれを妨害し、朝鮮に大軍を送り、また朝鮮沖で日本の軍艦を攻撃した(豊島沖海戦)。日本が朝鮮の治安の責任を負い、独立国とさせた朝鮮の地位と天津条約とを否定し、日本の権利・利益を損傷し、そして東洋の平和を保障させない清の計画は明白である。清は平和を犠牲にして非望を遂げようとするものである。事が既にここに至れば、日本は宣戦せざるを得なくなった。戦争を早期に終結して平和を回復させたいと思う。」
^ 翌8月初めて無名兵士の忠勇美談が報じられた。
^ 混成第九旅団は、堡塁の存在を知らず、要塞攻撃に不向きな山砲しか装備していない上に砲弾の選択ミスなどが重なり、大きな損害を出した。
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