日清戦争
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なお清の陸兵は、しばしば戦闘でふるわず、やがて日本側に「弱兵」と見なされた(日本の従軍記者は、清の弱兵ぶり、木口小平など日本兵の忠勇美談を報道することにより、結果的に後者のイメージを祖国のために戦う崇高な兵士にして行った[注釈 37])。
戦費と動員
戦費

戦費は、2億3,340万円(現在の価値に換算して約2兆3,340億円)(内訳:臨時軍事費特別会計支出2億48万円、一般会計の臨時事件費79万円・臨時軍事費3,213万円)で、開戦前年度の一般会計歳出決算額8,458万円の2.76倍に相当した[79]。うち臨軍特別会計(1894年6月1日?1896年3月末日)の支出額構成比は、陸軍費が82.1%(人件費18.4%、糧食費12.4%、被服費10.8%、兵器弾薬費5.6%、運送費16.9%、その他18.0%)、海軍費が17.9%(人件費1.1%、艦船費6.4%、兵器弾薬費・水雷費5.0%、その他5.4%)であった[80]。臨軍特別会計の収入額は、2億2,523万円であり、主な内訳が公債金(内債)51.9%、賠償金35.0%、1893年度の国庫剰余金10.4%であった(臨軍特別会計の剰余金2,475万円)。なお、1893年度末の日本銀行を含む全国銀行預金額が1億152万円であったため、上記の軍事公債1億1,680万円の引き受けが容易でなく、国民の愛国心に訴えるとともに地域別に割り当てる等によって公債募集が推進された。

1894年8月16日、軍事公債条例が公布された(勅令)(5000万円を限度とする)。8月17日、大蔵省は、軍事公債条例による軍事公債3000万円の募集を公示した(告示)。9月10日から発行、応募額は7700万円余にのぼり、実収額は3006万円。8月18日、大蔵大臣渡辺国武は、関東同盟銀行幹事渋沢栄一・山本直哉・安田善治郎代理長谷川千蔵をまねき、軍事公債募集について協力を要請した。また8月に渡辺蔵相は、各地方官にたいし、軍事公債条例について、管内の有志に応募させるよう内訓した。11月22日、2度目の内訓。11月21日、伊藤首相、渡辺蔵相は、東京の銀行家5人(荘田平五郎・中上川彦次郎・山本直哉・園田孝吉・安田善治郎)をまねき、軍事公債募集方法を協議した。11月22日、大蔵省は、軍事公債5000万円の募集を公布した(省令)。応募額は9030万円余、実収額は4763万余円。
動員(軍夫の大規模雇用)

1893年(明治26年)、陸軍が戦時編制を改め、翌年度から新編成が適用された。その1894年度動員計画では、野戦七箇師団[注釈 38]兵站部、守備諸部隊(北海道の屯田兵団を含む)など、人員220,580人、馬47,221頭、野戦砲294門を動員できる態勢であった[81]。なお、動員計画上、戦時の一箇師団は、18,500人と馬5,600頭で編制されることになっていた。

実際の動員(充員召集)は、6月5日第五師団の歩兵第九旅団から始まり、7月12日に残りの歩兵第十旅団が続いた(朝鮮半島の地形等が考慮され、野戦砲兵連隊の装備が野砲から山砲に変更)。7月24日第六師団が、8月4日第三師団が、8月30日第一師団が動員に入り、また10月上旬に第二師団が動員を終えた[注釈 39]近衛師団10月8日戦闘部隊の動員が終わったものの、派兵が決まらなかったため、兵站部などを含めた動員の完了が翌年2月16日となった。第四師団12月4日戦闘部隊の動員が終わり、翌年3月上旬に動員が完了した。その後、遼河平原での作戦が完了すると(1895年3月9日田荘台を攻略)、第二期作戦(直隷決戦)の準備が始まった。3月16日に参謀総長小松宮彰仁親王陸軍大将が征清大総督に任じられ、直隷決戦で先陣を務める近衛師団と第四師団が広島から遼東半島に向かった。

最終的に計画を上回る240,616人が動員され、うち174,017人 (72.3%) が国外に出征した。ただし第四師団など、実戦を経験しないまま帰国した部隊もある。また、文官など6,495人、主に国外で運搬に従事する民間人の軍夫[注釈 40]10万人以上(153,974人という数字もある)の非戦闘員も動員した(10年後の日露戦争では、軍夫(民間人)の雇用に代わり、兵役経験のない未教育者を補助輸卒として多数動員)。なお、20-32歳の兵役年齢層について戦闘員の動員率5.7%(国外動員率4.1%)と推計される[注釈 41]

近代陸軍のモデルである仏独の陸軍は、鉄道と運河を使えない所で物資輸送を馬に頼っており、また日本陸軍はドイツ陸軍を手本に兵站輸送計画を立てていたにもかかわらず、物資の運搬を人(背負子(しょいこ)と一輪車、大八車)に頼った主因は、馬と馬糧の制約[注釈 42]にあった。特に馬の制約は、最初に出動した第五師団で強かった。同師団は、徴馬管区内の馬が少なかったこともあり、乗馬669頭と駄馬789頭の動員にとどまった(上記の通り装備から野砲を外したため、砲兵用の輓馬0頭)。しかも徒歩車輌(大八車)を用意せず、現地徴発の朝鮮人人夫と馬がしばしば逃亡したため、兵站部所属の軍夫1,022人(戦闘部隊所属を含む軍夫の総計5,191人)が駄馬を引き、背負子で物資を運搬するだけで足りず、ときに戦闘員も兵站部の物資運搬に従事した。
軍紀(戦地軍法会議での処罰者数)

戦地軍法会議による処罰者が1,851人いた[82]。そのうち軍人が約3割、軍夫が約7割を占め、また全体の2割に当たる370人(重罪3人)が陸軍刑法違反で、残り8割の1,481人(重罪38人)が刑法などその他の法令違反であった。

国外動員の陸軍軍人174,017人のうち、500人台(0.3%前後)が処罰された。内訳は、対上官暴行が6人(重罪3人)、逃亡罪が11人(軍人以外は307人)であった。平時の生活とかけ離れた戦場の中でも、軍紀は、おおむね保たれたと考えられている。ただし、戦地軍法会議にかけられなかった旅順虐殺事件が発生しており、1894年(明治27年)6月29日付けの参謀総長から混成旅団長宛の訓令「糧食等の運搬は全て徴発の材料を用うべき事」を受けて「およそ、通行の牛馬は荷物を載せたると否とに関わらず之を押掌する」(杉村濬「明治二十七年在韓苦心録」)ような行為が公然と行われていた。また被疑者を特定できない等、処罰に至らなかった刑法犯罪なども当然あったと考えられる。
日本軍の損害
戦死者700人以上の戦没者を出した第三師団の鎮魂のために名古屋市中心地に建てられた日清戦争戦没記念碑[83]

参謀本部「明治二十七八年日清戦史」では、軍人・軍属の戦死 1,132、戦傷死 285、病死 11,894、戦傷病 3,758、合計13,488人、服役免除(疾病、刑罰等)3794人で、全体の減耗人員数の合計は17282人と報告された[84]。これによれば、軍人・軍属の戦死、戦傷死、病死の合計死者数は13,311人となる。

歴史学者の井上清は昭和41年の著書で、日本陸軍12万人のうち戦死者数は5417人とする[85]

防衛ハンドブック(1992年、朝雲新聞社)によれば、戦死・戦傷死1,567名、病死12,081名、変死176名、計13,824名(戦傷3,973名)[86]
軍夫の損害

歴史学者の原田敬一は2007年の著書で、参謀本部『明治廿七八年日清戦史』には全動員力24万616人[87]、うち17万4017人が派遣され、軍夫は15万4000人のうち5000人国内使役のほかは派遣された[88]とあることから、軍夫も武装した輜重輸卒であったことからこれを含めると、日本軍の動員は39万5000人であったとする[88]。原田は、軍夫の死者数は調査されなかったが、7000人以上と推定する[88]
病死者

陸軍省医務局編『明治二十七八年役陸軍衛生事蹟』によれば、日清戦争と台湾平定(乙未戦争)を併せて陸軍の総患者284,526人、総病死者20,159人(うち脚気以外16,095人、79.8%)であった(軍夫を含む)[89]。しばしば議論の的になった脚気については、患者41,431人、死亡者4,064人(うち朝鮮142人、清1,565人、台湾2,104人、内地253人[注釈 43])であった。なお脚気問題の詳細は、「陸軍での脚気大流行」を参照のこと。

当時の朝鮮半島は衛生状態が悪いこともあり、また発展途上国で日本と違いトイレットペーパーが不足していた(当時の日本では山村でない限り普及していた)ことから、戦地で伝染病がはやった[注釈 44]。とりわけ台湾では、暑い季節にゲリラ戦にまきこまれたため[注釈 45]近衛師団長の北白川宮能久親王陸軍中将がマラリアで陣没し[注釈 46]、近衛第二旅団長山根信成陸軍少将も戦病死したほどであった[注釈 47]。ただし、広島大本営参謀総長有栖川宮熾仁親王陸軍大将が腸チフスを発症したなど、国内も安全ではなかった。


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