日清戦争
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^ 一例として開戦前夜、海軍大臣西郷従道海軍中将は「北洋艦隊の優勢なるを憚るが為に躊躇したり」と伝えられている(外務次官林董の回想録『後は昔の記』)。戸高 (2011)、164頁。
^ 1873年(明治6年)1月に制定された徴兵令は、日清戦争までに大改正が3回あった。大改正の主眼は、徴兵の不公平感を緩和し、徴兵忌避を防止することにあった。また、一年志願制の導入など高学歴者に特例を設けた(当初、専門知識が必要な衛生兵養成のために導入され、その後、動員に不可欠な予備役将校の養成としても運用された)。戸田 (1998)、117-118頁。
^ 1890年(明治23年)の第一議会から1892年(明治25年)の第四議会まで、「富国強兵」か地租軽減など「民力休養」かが争点になっていた。しかし、1893年(明治26年)11月の第五議会では、排外的なナショナリズムにかかわる議論が高まった。悲願の条約改正が現実味を帯びる中、外国人の往来自由への嫌悪感、その自由な経済活動による輸入増加への警戒などを背景に、外国人の内地雑居への反対論が強くなったのである(条約励行、つまり「関税自主権回復を含む完全な条約改正でなければ、現状の不平等条約をそのまま維持」との主張で、まず領事裁判権(治外法権)撤廃から達成できそうな条約改正の大きな障害になっていた)。強硬的な外交(対外硬)に全体の論調が動いたものの、民党連合が分裂し、政府と対決する硬六派が形成された。硬六派は、衆議院解散後の1894年(明治27年)3月1日に行われた第3回総選挙でも、過半数を上回った。御厨 (2001)、270-277頁。
^ 5月17日、伊藤内閣弾劾上奏案が提出された。144対149の僅差で否決されたものの、自由党の迷走により、5月31日、微細な予算問題で提出されていた別の内閣弾劾上奏案が153対139で可決された。御厨 (2001)、277-279頁。
^ 5月27日か28日、代理公使の杉村から機密文書が届いていた。その内容は、朝鮮が「兵を支那に借り」て乱を鎮圧する動きがあり、万一に備え、出兵の可否を決めておくべきとの進言であった。31日、朝鮮は、清への援兵を決議した。翌6月1日、公文で朝鮮駐在の袁世凱に伝達しようとするものの、延着した(3日夜)。1日午後、代理公使の杉村は、「袁世凱いわく朝鮮政府は清の援兵を請いたりと」と打電した。(原田(2008), p. 56-58)(岡本(2008), p. 147-149)
^ たとえば、派兵決定の6月2日時点で新鋭艦の「吉野」は、鎮守府が置かれた4港の中で、朝鮮から最も離れた横須賀に停泊していた。また、主力艦として期待された松島型3隻のうち「松島」は、「千代田」とともに清の福建省沖を航行中であった。残る2隻のうち「厳島」は、大本営が設置された翌6日に修理が命じられており(工期60日)、「橋立」は、修理改造中であった(7月4日に整備も訓練も不十分なまま艦隊に編入された)。戸高 (2011)、110、164頁。
^ 開戦を主導した外務大臣陸奥宗光は、朝鮮の内政改革について次のように書き記した。余は固より朝鮮内政改革を以て政治的必要の外、何等の意味なきものとせり。亦毫も義侠を精神として十字軍を興すの必要を視ざりし。故に朝鮮内政改革なるものは、第一に我国の利益を主眼とするの程度に止め、之が為め敢て我利益を犠牲とするの必要なしとせり。且つ今回の事件として之を論ずれば、畢竟朝鮮内政の改革とは、素と日清両国の間に蟠結して解けざる難局を調停せんが為めに案出したる一箇の政策なりしを、事局一変して竟に我国の独力を以て之を担当せざるを得ざるに至りたるものなるが故に、余は初より朝鮮内政の改革其事に対して格別重きを措かず。 ? 陸奥 (1994) 、62頁。
^ 日本政府が、国民に伝えた宣戦の理由(清国ニ対スル宣戦ノ詔勅)の要旨は、次の通り。「そもそも、朝鮮は日本と日朝修好条規を締結して開国した独立の一国である。それにもかかわらず、清は朝鮮を属邦と称して内政干渉し、朝鮮を救うとの名目で出兵した。日本は済物浦条約に基づき、出兵して変に備えさせて朝鮮での争いを永久になくし、東洋全局の平和を維持しようと思い、清に協同して事に従おうと提案した。しかし清は様々な言い訳をしてこれを拒否した。日本は朝鮮の独立を保つため、朝鮮に改革を勧めて朝鮮もこれを肯諾した。清はそれを妨害し、朝鮮に大軍を送り、また朝鮮沖で日本の軍艦を攻撃した(豊島沖海戦)。日本が朝鮮の治安の責任を負い、独立国とさせた朝鮮の地位と天津条約とを否定し、日本の権利・利益を損傷し、そして東洋の平和を保障させない清の計画は明白である。清は平和を犠牲にして非望を遂げようとするものである。事が既にここに至れば、日本は宣戦せざるを得なくなった。戦争を早期に終結して平和を回復させたいと思う。」
^ 翌8月初めて無名兵士の忠勇美談が報じられた。
^ 混成第九旅団は、堡塁の存在を知らず、要塞攻撃に不向きな山砲しか装備していない上に砲弾の選択ミスなどが重なり、大きな損害を出した。
^ 『日清戦史』によると、糧食不足の要因は、1)農村の疲弊によって現地調達が困難、2)糧食運搬を担う朝鮮人人夫が集められない上に逃亡もあった、3)ときに戦闘員を兵站部の物資運搬に使わざるを得ず、4)道路がよくなく、5)炎暑で気候もよくなかった。(原田(2008), p. 113-114)
^ 当時の日本海軍は、艦隊運動(信号によって複数艦が整然と行動)が未熟であった。伊東長官が「この不熟練なる艦隊では、正々堂々と一挙一動信号の下に行動することは困難」と「非常に心配」し、佐世保から出航するまでの一月足らずの間、訓練が行われた。対する北洋艦隊は、艦長の多くが欧米への軍事留学経験者で占められていたものの、信号書の不足など、日本艦隊と同じように艦隊運動に不安があった。(原田(2008), p. 44,131)
^ ただし、期待された臨時攻城廠の砲兵連隊(カノン砲16門、臼砲14門)は、大型砲の故障と運搬に手間どり、結局のところ榴弾73発、榴散弾22発の砲撃にとどまった。
^ 戦闘員が糧食運搬に従事しても、平壌に運べる糧食が一箇師団分に足りず、ときに過酷な現地徴発をした。10月12日、「物資の揚陸可能地点を発見」との知らせが入り、進軍を再開した。(原田(2008), p. 161-162)
^ 清軍の防衛拠点九連城を攻撃するには、地形上、架橋による敵前渡河が避けられなかったため、24日未明に支隊(歩兵2箇大隊など)が敵前徒渉することとなっていた。しかし、ここでも糧食補充の遅れにより、山砲2門の砲撃援護の下、11時過ぎに歩兵中隊が敵前徒渉を始め、40分ほどで対岸に着いた。同中隊は、迎撃にきた清軍の騎兵200騎を撃退した。
^ 福島県立図書館「佐藤文庫」所蔵、「日清戦史」草案中の「第十六編第七十二章第二草案 南方作戦に関する大本営の決心及びその兵力」には、開戦後間もない1884年8月9日の陸海軍参謀会議で澎湖列島、台湾の領有が「将来東亜の覇権を握り太平洋の海上を制するに極めて必要」とされていた。中塚明『歴史の偽造をただす』高文研、165-168頁。もっとも両島領有の構想は、開戦以前にさかのぼる。山本四郎『日本史研究』75号、1964年11月。中塚明『日清戦争の研究』青木書店。なお、これらの研究は、1887年2月陸軍参謀本部第二局長小川又次陸軍大佐による「清国征討対策案」も紹介した。この「第二編 作戦計画」では「明治25年に準備を完了し、乗ずべき機を窺うべきである」とし、「第三編 善後処置」では「戦勝条約の時に在りて必ず左の六要衛を本邦の版図に帰せざるべからず」として1)旅順半島、2)山東登州府、3)浙江省舟山群島、4)澎湖群島、5)台湾全島、6)揚子江沿岸左右十里の地、を挙げていた。
^ 戦闘部隊は、東京湾警備の後備歩兵第一連隊(後備連隊は二箇大隊編成)、下関海峡警備の歩兵第12連隊第二大隊、山砲一箇中隊(6門)、騎兵5騎。
^ 「文野〔文明と野蛮〕の戦争」とは、文明開化を図る国(日本)とそれを妨げる国(清)との戦争を意味する。加藤 (2002)、115頁。
^ 開戦前の7月17日、大本営で開かれた最初の御前会議に山縣枢密院議長が列席し、同月26日の会議に伊藤首相の出席が認められた。黒野 (2004)、89-90頁。
^松島」と「厳島」と「橋立」の松島型3艦、「千代田」、「秋津洲」、「吉野」の計6隻
^ 操江号に乗れる〔清の〕募集兵のいふ所によれば、一ケ月の給料は三両の取極めにして、無事に帰国したる時は別に三十両を給与せらる。その外、何の条件もなしとか。此説を聞ける長崎居留の西洋人等は、さすが支那なり、……、戦死したる時は遺族にかうするとか、負傷者にはどうするとか云はざるは旨い考えなり。
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