日活
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

1945年4月、大映から直営館29館を譲り受け90館になり[5][6]、11月、「日活株式会社」に社名変更[5][7]。製作部門を持たない日活は、終戦直後は大映の映画、その後はアメリカ映画の興行を専門にしていた[8][注 1]戦後復興期が終わると人気に翳(かげ)りが出てきていたアメリカ映画の興行は、5割を越える高いフィルム賃借料が足枷(あしかせ)となり利益が出なかった[9]。その上、〔1951年 - 1952年〕、外国映画の輸入権限がGHQから日本政府に移り、洋画配給がセントラル映画社(CMPE)からメジャー各社の日本支社と日本の配給会社に移されると、メジャー各社の横暴が顕著になり、洋画大作は松竹東宝系でロードショー公開、日活には小物や余り物映画といった扱いで、日活の業績は急速に悪くなっていった[9]。活況である映画製作会社とは対照的に、映画の興行部門は製作・配給会社の直営館や大手興行会社の大都市封切館を除くと、映画館の新築ブームで競争相手が増加しているため経営状態は悪かった[9]。1952年、経営不振の新東宝から日活への資本提携の打診は、製作部門を持たず製作再開を考慮中だった日活が新東宝の製作・配給部門を手に入れる千載一遇のチャンスだったが、東宝の強行な反対によって頓挫する[10]。また、赤字からかろうじて脱していた東映が、1953年にマキノ光雄の果断によって製作した『ひめゆりの塔』の空前の大ヒットにより急成長するのを日活は横目で見ていた[9]。映画製作再開論者の江守清樹郎常務が洋画興行の劣勢を挽回するために、慎重派の堀久作社長を説得した[11]。1953年7月8日、堀は日活の株主宛に「映画製作再開のお知らせ」を送付[10]。同年9月1日、堀は記者会見で「月2本のカラー映画製作」という基本方針を発表[10]。1954年6月29日、製作再開第1作『国定忠治』が公開[12]

撮影所の1期工事竣工〔1954年3月〕の前後から、山根啓司製作部長が中心となって、監督や映画スタッフの引抜きを本格化させる[13]。しかし、既に前年1953年9月10日、引抜き防止策である「五社協定」が5社長会議〔松竹・東宝・大映・東映・新東宝〕で調印[14][注 2]。製作スタッフに比べ、俳優の引抜きは順調にはいかず、江守も「スター不在の日活」だったと認める状態が当分の間続く[15]。再開後しばらくは新国劇新劇の俳優に依存していたが、その状態から脱するために新人発掘、ニューフェイスの育成、他社の主役のみではなく脇役も勧誘、また、本数契約のスターと日活も本数契約を交わしたり、移籍をお願いした[15]

新人のニューフェイスなどを登用せざるを得なくなり、宍戸錠名和宏長門裕之らを起用。やがて石原慎太郎原作の「太陽族」映画が当たると、石原裕次郎小林旭浅丘ルリ子待田京介赤木圭一郎二谷英明岡田真澄川地民夫和田浩治葉山良二中原早苗笹森礼子清水まゆみ小高雄二青山恭二筑波久子らを起用した若者向けの低予算のアクション映画中心の会社に路線変更した。また劇団民藝と提携し俳優を確保、杉良太郎梶芽衣子白木マリ岡田可愛等も所属していて杉がNHKや他社製作のテレビ時代劇で活躍し始め注目されて来ていたが、自社でのテレビ時代劇のスターへ育てる事を示す為に、梶、白木、岡田と共に出演させる事にし、テレビ時代劇の製作経験が無いことで、東京12チャンネルと組む事とし『大江戸捜査網〈アンタッチャブル〉』の第1シリーズの製作を開始し、終了半年後にも『大江戸捜査網』として第2シリーズの製作迄を行った。興行収益が好調な上に事業多角化を推進したため、業績は堅調。これによって石原、小林、赤木、和田による「日活ダイヤモンドライン」と中原、芦川、浅丘、笹森、清水、吉永小百合による「日活パールライン」を看板に掲げた。
日活による引抜き、または、自らすすんで移籍した主な俳優・スタッフ

俳優

津島恵子1954年、フリー)

松竹から

阿南純子(1954年)

北原三枝(1954年)

三橋達也(1954年)

三島耕(1954年)

月丘夢路(1955年)


大映から

南田洋子1955年

坂東好太郎(1955年)


新東宝から

左幸子(1955年)


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:164 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef