撮影所の1期工事竣工〔1954年3月〕の前後から、山根啓司製作部長が中心となって、監督や映画スタッフの引抜きを本格化させる[13]。しかし、既に前年1953年9月10日、引抜き防止策である「五社協定」が5社長会議〔松竹・東宝・大映・東映・新東宝〕で調印[14][注 2]。製作スタッフに比べ、俳優の引抜きは順調にはいかず、江守も「スター不在の日活」だったと認める状態が当分の間続く[15]。再開後しばらくは新国劇や新劇の俳優に依存していたが、その状態から脱するために新人発掘、ニューフェイスの育成、他社の主役のみではなく脇役も勧誘、また、本数契約のスターと日活も本数契約を交わしたり、移籍をお願いした[15]。
新人のニューフェイスなどを登用せざるを得なくなり、宍戸錠、名和宏、長門裕之らを起用。やがて石原慎太郎原作の「太陽族」映画が当たると、石原裕次郎、小林旭、浅丘ルリ子、待田京介、赤木圭一郎、二谷英明、岡田真澄、川地民夫、和田浩治、葉山良二、中原早苗、笹森礼子、清水まゆみ、小高雄二、青山恭二、筑波久子らを起用した若者向けの低予算のアクション映画中心の会社に路線変更した。また劇団民藝と提携し俳優を確保、杉良太郎、梶芽衣子、白木マリ、岡田可愛等も所属していて杉がNHKや他社製作のテレビ時代劇で活躍し始め注目されて来ていたが、自社でのテレビ時代劇のスターへ育てる事を示す為に、梶、白木、岡田と共に出演させる事にし、テレビ時代劇の製作経験が無いことで、東京12チャンネルと組む事とし『大江戸捜査網〈アンタッチャブル〉』の第1シリーズの製作を開始し、終了半年後にも『大江戸捜査網』として第2シリーズの製作迄を行った。興行収益が好調な上に事業多角化を推進したため、業績は堅調。これによって石原、小林、赤木、和田による「日活ダイヤモンドライン」と中原、芦川、浅丘、笹森、清水、吉永小百合による「日活パールライン」を看板に掲げた。
日活による引抜き、または、自らすすんで移籍した主な俳優・スタッフ
俳優
津島恵子(1954年、フリー)
松竹から
阿南純子(1954年)
北原三枝(1954年)
三橋達也(1954年)
三島耕(1954年)
月丘夢路(1955年)
大映から
南田洋子(1955年)
坂東好太郎(1955年)
新東宝から
左幸子(1955年)