日比谷焼打事件
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東京地裁第一刑事部の裁判長今村恭太郎[注釈 5]、陪席判事深川田次郎、同岡慶治[注釈 6]、検事安住時太郎、杉本時三郎のもとで、翌年2月26日から4月11日まで11回に渡り公判が行われた。4月21日に無罪が言い渡され、控訴はなく無罪が確定した[6]
講和条約反対暴動の推移決起集会

9月5日東京日比谷公園でも野党議員が講和条約反対を唱える民衆による決起集会を開こうとした。不穏な空気を感じた警視庁は禁止命令を出し、警察官350人と丸太で公園の入り口を封鎖した。

しかし怒った民衆たちが日比谷公園に侵入。一部は皇居前から銀座方面へ向かい、御用新聞と目されていた国民新聞社を襲撃した。すぐ後には抜刀した5人組が内務大臣官邸を襲撃し、棍棒や丸太で裏門からも襲った。銀座からの暴徒と化した群衆も襲撃に加わった。そうして、東京市各所の交番[7]警察署などが焼き討ち・破壊される事件が起こり、市内13か所以上から火の手が上がった[8]

この時、日本正教会がロシアと関係が深かったことから、ニコライ堂とその関連施設も標的になり、あわや焼かれる寸前であったが、近衛兵などの護衛により難を逃れた[9]。また群衆の怒りは、講和を斡旋したアメリカにも向けられ、東京の駐日アメリカ公使館のほか、アメリカ人牧師の働くキリスト教会までも襲撃の対象となった[10]

これにより東京は無政府状態となり、翌9月6日日本政府は東京市および府下5郡に戒厳[注釈 7]を布き[11]即日施行、近衛師団が鎮圧にあたることでようやくこの騒動を収めた[注釈 8]。この騒動により、死者は17名、負傷者は500名以上、検挙者は2000名以上にものぼった。このうち裁判にかけられた者は104名[13]、有罪となったのは87名であった。

なお、各地で講和反対の大会が開かれ、9月7日神戸9月12日横浜でも暴動が起こった。
被害にあった建物

内務大臣官邸

外務省

国民新聞社

キリスト教関係

駒形町福音伝道館

三軒町美以教会

黒船町聖約翰教会

森下町
救世軍分営

芝崎町浅草美以教会・牧師館(現在の日本基督教団浅草教会

横川町天主教会・付属小学校

吉田町天主教信者鈴木房次郎宅

松倉町同盟教会講義所(現在の日本同盟基督教団

向島小梅町同盟教会(現在の日本同盟基督教団

両国矢ノ倉町日本基督教会(現在の日本基督教団永福町教会

御士町日本基督教会(現在の日本基督教団豊島岡教会

日本基督明星教会(現在の日本基督教団小石川明星教会)

車坂町美以教会(現在の日本基督教団下谷教会

脚注
注釈^ 戦費17億円は国家予算6年分。外債8億、内債・増税9億。
^ @media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}後世から客観的に見ると、当時の藩閥内閣である第1次桂内閣の日露戦争への対応は評価される。[誰によって?]戦争継続の困難を把握して、ロシアへ決定的な勝利した中でアメリカ大統領に講和斡旋を働きかけ、1905年9月のポーツマス条約で大日本帝国の朝鮮支配と満洲進出の基礎を築いた[2]
^ しかし、小村の交渉を伊藤博文などは高く評価した。また、内閣総理大臣(首相)の桂と海軍大臣(海相)の山本権兵衛は小村を新橋駅に出迎え両脇を挟むように歩き、爆弾等を浴びせられた場合は共に倒れる覚悟であったという。
^ 座長は野党憲政本党の河野広中
^ のち関東大震災朝鮮人虐殺事件のとき東京地方裁判所所長。
^ 岡慶治は本郷教会の教会員[5]関東大震災当時の浦和地方裁判所所長。
^ 緊急勅令による行政戒厳。


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