日比谷公園
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都市計画上は北の丸公園皇居外苑、日比谷公園などを合わせて「東京都市計画公園第9・6・6号中央公園」となっている(計画面積176.2ha)[1]。この都市計画中央公園の区域のうち、東京都では皇居外縁南東部の約16haに都立日比谷公園を開設している[1]

公園面積は161,636.66 uである(2021年12月1日現在)[1]東京ドーム(1.3ヘクタール)と並んで、かつては「日比谷公園何個分」など、敷地面積の尺度とされることが多かった(例:バチカン市国は日比谷公園3個分[2])。

自然環境としては、芝生や樹林地、池などに身近な生物が見られ、皇居以外に自然植生の少ない千代田区において貴重な自然的環境の空間となっている[1]

社会的環境としては、北側に日比谷濠を挟んで皇居前広場、西側に中央官庁街、東側や南側は主にビジネス街である[1]

日比谷公園ガーデニングショーを始めとし、各種物産、文化・音楽、園芸、鉄道、スポーツなどのイベントや展示も多く開かれる[3]テレビドラマの撮影地として使用されることも多い。

霞が関にある東京地方裁判所公判傍聴希望者殺到が予想される場合、傍聴席の抽選は庁舎近くの日比谷公園で実施されている。
園内

園内の主要な施設として、市政会館および日比谷公会堂、野音の聖地である大小の野外音楽堂日比谷図書文化館(旧:東京都立日比谷図書館)、「緑と水の市民カレッジ」、レストラン&結婚式場『日比谷パレス(旧:結婚式場 高柳亭)』、貸切結婚式場フェリーチェガーデン日比谷(旧公園資料館)、テニスコート、松本楼、売店などがある[4]。また園内に生える多くの樹木と大小の花壇が、四季折々の花と緑で都市生活者や観光客の目を楽しませている。
首かけイチョウ
園内にある推定樹齢 400 年、幹回り 650cmのイチョウ[1]1901年(明治34年)の日比谷通りの拡張工事では伐採されることになっていたが、公園の主設計者である本多静六が「私の首を賭けても移植する」として園内に移された[1]
日比谷見附跡
江戸城の名残りを公園設計に取り入れ、日比谷見附跡や堀を利用した心字池などがある[1]
ハナミズキ
アメリカへ贈られポトマック河畔に植えられたサクラの返礼としてハナミズキが贈呈され、日比谷公園などに植えられた(日比谷公園内の樹は後継樹)[1]
記念碑・彫刻
各種の記念碑や彫刻、米国から贈られた自由の鐘などがある[1]ホセ・リサール像(フィリピンの独立運動家)、ルーパ・ロマーナ(ローマの狼、ローマの建国神話ロームルスとレムスを育てたとされる)、ルーン石碑に模した「古代スカンジナビア碑」、南極の石など各種の記念碑・物が寄贈されている。

東京都地域防災計画により、地区内残留地区(全域)、災害時臨時離着陸場候補地(第二花壇)、一時滞在施設(緑と水の市民カレッジ)などに指定されている[1]。また、千代田区地域防災計画により北西側エリアは災害時退避場所になっている[1]。公園内には災害用給水槽(有効水量1,500立方メートル)が設置されている。定水位弁による引き入れと循環ポンプによる引き出しで、給水槽内のは常に新鮮な状態に保たれている。応急給水口が用意され、震災時は清廉な水道水を無償で給水する。
歴史
公園計画

官庁集中計画においては日比谷ヶ原にも官庁の建設が予定されたが、元々日比谷入江だったため地盤が悪く、大掛かりな建物の建設には不向きと判断された。同年11月、内務省東京市区改正委員会において古市公威と芳野世経により公園地としての利用が提案され、翌年には日比谷公園を第一とする第四十九までの公園の整備を盛り込んだ市区改正が告示された[5]

日本の公園制度は1873年(明治6年)の太政官布達第16号に遡るが、上野公園芝公園など寺社境内の公園化が中心で、日本人で一から新しく公園を造るのは全く初めての試みだった。1893年(明治26年)に東京市から払下げを受け、告示第六号により跡地は正式に日比谷公園と命名された。

同年に東京市により設計案が出されたが内部検討に終わり、更に1894年(明治27年)6月の日本園芸会が小平義近による甲乙案、田中芳男による丙案という三案を提出したが、採用されなかった。1897年(明治30年)に公園改良取調委員会が設置され、1898年(明治31年)の長岡安平による案が、1899年(明治32年)8月の辰野金吾による案が検討されたが、いずれも採用されなかった[5]1907年発行の『東京案内』より

1900年(明治33年)に東京市吏員5名が案を提出するが、またしても不採用だった。その後1901年(明治34年)、辰野金吾により本多静六が推挙され[6][7]石黒忠悳福羽逸人小沢圭次郎等とともに日比谷公園造園委員会が設置され、結局、造園委員でもありドイツ留学を終えたばかりの本多を中心として立案することとなった[8]。本多は留学経験を生かしてドイツ式庭園を目指した一方で、江戸城に連なっていたを埋め立てる際に一部を心字池として埋め残し、日本的な要素も残した。心字池ではかつての石垣の一部を今でも見ることができる。ついにこの案が採用となり、本郷高徳により図面が起こされ[9]1902年(明治35年)4月に着工。翌年6月1日に仮開園を迎えた[10]
開園後

早くも開園と同年に洋風喫茶店松本楼、和風喫茶店三橋亭(後のパークセンター)、結婚式場高柳亭(現・日比谷パレス)、洋風レストラン麒麟亭(現・レストランなんぶ)、植木屋などが出店し、戦後も営業する店舗の多くが出揃っている。日露戦争に勝利すると、献木が盛んとなり、樹木が充実した。

1905年(明治38年)8月、野外音楽堂が竣工(現在の野外小音楽堂に位置)[1]1923年大正12年)7月に野外大音楽堂が完成した[1]

@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}園内の花や樹木を盗まれることが多かったため、開園後2か月で深夜開放が禁止された。[要出典]

開園後には、日露戦争祝賀会や西園寺公望山本五十六など政府・軍要人の国葬大隈重信国民葬の開催場所として政府などに積極的に活用された一方で、大正デモクラシーの中、東京市電賃上げ反対運動や普通選挙運動、シーメンス事件に対する第2次山本内閣弾劾国民大会など、民衆による社会運動の拠点ともなった。日露戦争の講和条約であるポーツマス条約に対する日比谷焼打事件など、暴動に発展する事件も多々起こった。

1908年7月11日『読売新聞』には「昨今夜の日比谷公園、堕落男女の野合場と化す。毎夜密行巡査十数人、醜行取締りに出動」とある。

同年日本統治下の台湾に初の近代的公園として日比谷公園を模した新公園(台北公園)が作られた[11]
関東大震災


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