日本
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民族グループ[798].mw-parser-output .legend{page-break-inside:avoid;break-inside:avoid-column}.mw-parser-output .legend-color{display:inline-block;min-width:1.5em;height:1.5em;margin:1px 0;text-align:center;border:1px solid black;background-color:transparent;color:black}.mw-parser-output .legend-text{}  日本[注釈 67] (97.5%)  中国 (0.6%)  ベトナム (0.4%)  韓国 (0.3%)  その他[注釈 68] (1.2%)
大和民族の成立

遺伝子構成(大和民族[注釈 69][799])  東アジア系 (89%)  オーストロネシア系 (7%)  フィン・ウゴル系 (2%)  中央アジア系 (2%)

日本列島の住民のうち、殆どを構成しているのが大和民族である。大和民族の起源は、縄文時代以前から定住していた「縄文人」と、ユーラシア大陸から弥生時代以降に複数回にわたって移住してきた「弥生人」が融合して形成されたものである。移住してきた経路は時代によって異なる。

最初に主流になったのは、沖縄・南九州・北東北地方に多い縄文人である[800]。この時期、日本海経路で小規模ながら交易がおこなわれていたことが出土品から証明されている。その後、稲作文化とともに大陸からやってきた人々が、北九州から中部地方に多い弥生人の基盤となった。日本列島に移住してきた経路や、規模、時期の詳細については、定かでない部分が多く、諸説ある。

縄文人と弥生人では身体的特徴に違いがある。縄文人は古モンゴロイドに属し、目が丸く大きい、彫りが深い、骨太で筋肉質、歯が短い、髪が癖毛、ヒゲと体毛が濃い、耳垢が湿っている、などの特徴を持つ場合が多い。弥生人は新モンゴロイドに属し、目が細く小さい、彫りが浅い、長身ですらっとした体格、歯が長い、髪が直毛、ヒゲと体毛が薄い、耳垢が乾いている、などの特徴を持つ場合が多い。

島国という地理的な特性から、その後も日本には小規模な移住(漂着や密航など)が何度も繰り返された。また、近代までの日本は鎖国時代を除いて移民難民の受け入れには比較的寛容でもあった[801]16世紀中盤から17世紀中盤にかけては衰亡するから逃れてきた難民を多数受け入れ、開国後の19世紀後半以降にも李氏朝鮮ロシア帝国[802]からの移民・難民を大量に受け入れていった[801]

こうして縄文人、弥生人(大陸人)、オーストロネシア人ポリネシア人マレー人など)といった複数の民族が互いに混血し、文化を取り込みながら発展したと推測される。それらの中から最大勢力として発展してきたのが自称として「和人」、あるいは近代的な民族意識の下で「大和民族」あるいは「日本民族」である。
その他の民族北海道にはニセコアンヌプリといったようなアイヌ民族由来の地名が多く残されている

古代の日本は多民族国家であったと考えられている[803]。国の史書からも、大和民族のほかに、南九州には熊襲隼人)、中九州には肥人、近畿地方関東地方には国栖、関東地方と東北地方には蝦夷などがいた事が窺える。しかしこれらの部族・民族が具体的にどの人種・民族集団に属するかは緒論あり確定的定説はない[803]

古墳時代、本州・四国・北部九州の各地方のうち、瀬戸内海の周辺地域を主とする人々は、大和盆地を本拠地とするヤマト王権のもとに統一され、倭人(和人)としての文化を形成する。飛鳥時代の律令国家、日本の国号と大和朝廷の確立に伴い、和人の文化的一体性がより糾合された。その後、朝廷の支配下に入るのが遅れた北東北(蝦夷)、南九州(熊襲・隼人)の人々を同化しながら文化圏の拡大を続け、平安時代までに本州・四国・九州の全域が和人の生活範囲となった。

江戸時代には、薩摩藩による琉球王国への侵攻松前藩アイヌ支配の確立により、北海道を含む日本列島と南西諸島の全域が和人の勢力圏に置かれた。これらの辺境地域は、弥生時代以降連綿として、本土との間で物的・人的交流が盛んに維持されてきた一方で、政治的枠組みとしては、「蝦夷地」と総称された現在の北海道・千島列島・樺太南部が日本に編入されたのは実に明治2年1869年)の事であり、それまでは南部(渡島)の和人とそれ以外にアイヌ民族が広く居住する地であった所、明治以降の開拓で急速に和人との同化が進んだ。また、琉球侵攻により保護国的立場に置かれながらも、独自の国家の体裁を保ち続けていた琉球王国のかつての版図(南西諸島のうち奄美群島沖縄諸島および先島諸島)は、1879年(明治12年)の琉球処分により名実ともに日本に編入または併合。奄美群島は鹿児島県に編入、沖縄・先島諸島には沖縄県が設置された。これ以降、急速に日本の近代化政策に組み込まれていくことになる。

現在、アイヌ語を第一母語とする人々は極めて少ないが、アイヌ文化振興法が制定されてアイヌ文化の保存・再興が図られている。なお、アイヌと共に南樺太にいたウィルタニヴフの多くは、ソビエトの侵攻・占領の後、北海道や本州へ移住した。

また、小笠原諸島には、19世紀初頭にハワイからの移民団が史上初めて定住し、欧米系島民(ヨーロッパ系アメリカ人やハワイ人)による小規模なコロニーが形成されたが、明治維新の後に日本による領有が確定すると順次、彼らも日本国籍を取得して日本人社会に溶け込んでいった。

なお、アイヌ民族は、和人との交流の中で、中世から近世にかけて成立したとされるが、成立の詳細な過程については不明な点が多い(詳細はアイヌの項目を参照のこと)。
移民日本における在留外国人の推移詳細は「日本の外国人」を参照

2023末時点で341万人の外国人がおり[416]、日本在住人口の約2.7%を占めている。中国籍、ベトナム国籍、韓国籍、フィリピン国籍、ブラジル国籍[416]の順に多く、韓国・朝鮮籍を除けば増加傾向にある。外国籍の増加の背景には外国人労働者の拡大がある。1990年の入管法改正でブラジルなど日系人向けの資格である定住者の新設、1993年(平成5年)の技能実習制度開始と外国人労働者を受け入れる政策を取っている。

@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}全人口の97.7%が日本民族とされるが、日本政府は日本国籍を有する者を日本民族としてみなしているため、アメリカ合衆国やイギリス、カナダなど移民の多い国で一般的に調査される、民族・人種調査は国勢調査では行われていない。そのため、アイヌ人などの少数民族、渡来人や亡命ロシア人の子孫、外国からの帰化者や国際結婚の配偶者、さらにはその子どもなども97.7%の日本民族という項目に含まれている。斯様な過程もあり、日本民族と言う呼称が、単一民族国家的な価値観に基づいた同化主義であるという見方もある。[要出典]

中国籍の半分は永住者及び定住者であり定住者は中国残留邦人の家族である。

韓国籍、朝鮮籍、および台湾籍については、戦前の旧・日本領の出身者、および両親のうちいずれか(あるいは両方)がその出身である者の子孫が多く韓国籍、朝鮮籍に関しては、戦後になってから朝鮮戦争や貧困・圧政から逃れて渡来してきた難民[804]が一部含まれている。

1895年に台湾を、1910年に朝鮮半島を併合後、第二次世界大戦敗戦まで日本の一部として、台湾人朝鮮人にも日本国籍を与えていたため、これらの地域にルーツを持つ人々が多く、順次、経済的に豊かであった本土に移住してきた者も少なくない[805]。明治の日本は西欧人の居住や移動、営業に関しては領事裁判権を認める代わりとして居留地制による制限を設けていたが、朝鮮人や中国人については制限がなく、日本国内の各地での雑居が認められていた。1899年に西欧各国との領事裁判権の撤廃が成り、居留地制度は一律に廃止され(内地雑居)たが、中国(清・中華民国:支那)人を含む外国人労働者には居住・就労の制限が設けられた(勅令第352号[806])。これはおもに華人(支那人)を規制する目的のもので朝鮮人には実質的に適用されなかったとされる[807]。台湾人もまた併合後は帝国臣民であり居住に制限はなかったが、台湾・朝鮮とも戸籍(台湾戸籍、朝鮮戸籍)の離脱は認められず、あくまで内地での寄留であった。台湾人の移住は戦前は少なく[注釈 70]、日本在住の台湾人は総じて学歴があり、華人(支那人)や朝鮮人とは異なり、オランダや明遺臣、清朝の植民地支配の歴史的経験があり、民族的な屈託がなく日本語(や外国語)に通暁しよく働くので厚遇された。華人(支那人)は三刀(料理人・理髪師・仕立屋)が、朝鮮人は労働者が中心で、移住規模も多かった[809][810]

朝鮮人労働者の日本内地への移動は日韓併合の1910年に2600人であった移動者が1923年には13万人あまりと増加傾向であり、1919年4月の「朝鮮人の旅行取締に関する件」(警務総覧部第3号)により朝鮮人の日本渡航への直接規制(旅行証明書制度)に転換し、移動制限を口実に実質的な居住規制に方針が転換された[注釈 71]。朝鮮半島領域では実施されていなかった参政権も普通選挙法(1925年)施行後の内地では認められており、希望を持ち移動し定住した者も多かったが生活は決して恵まれたものではなかった[注釈 72]。大戦中には軍人・軍属、あるいは就業目的として渡海した。また徴用労働者として800名以上が渡海した。

終戦の後、彼らの多くが祖国へ引き上げたが、各人の判断や事情によって日本に留まった者もいる。また、戦後相当の数の朝鮮人が祖国の混乱(朝鮮戦争)(国連による難民認定がされている)や韓国軍による虐殺(済州島四・三事件保導連盟事件など)を逃れて日本に渡った。その後、サンフランシスコ平和条約締結によって彼らは日本国籍を喪失し朝鮮籍となる。その後協定永住者から現在の特別永住者として変遷し日本に在住し続けている。帰化して日本国籍を取得する者も多く[811]、在日コリアンは減少を続けている。

アイデンティティと国籍の問題は明治の開国以来、日本が否応なく直面することになった人権問題であり、戦前から華僑印僑の人々や様々な移住者、戦後ながらくは台湾・中国系日本人コミュニティの間で葛藤を生んできた。1990年代以降、ブラジルなどの日系移民2世3世の出稼ぎ労働や、東南アジア・中国からの技能実習生といった外国人労働者の人権問題などが発生している。
言語詳細は「日本の言語」、「日本における漢字」、「国語国字問題」、「日本語」、「日本語の表記体系」、および「日本語の方言」を参照日琉語族の方言区分例

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日本には公用語を明示する法令が存在しない[812][注釈 73]が、日本語がほぼ全ての国民の母語であり、慣習に基づく事実上の公用語である。全土で均質化された日本語による義務教育が行われている。識字率は極めて高い。日本に定住する外国人も多くは日本語を理解する。国会では、アイヌ語などが使用された例もある[注釈 74]が、憲法や法律は、日本語で記したものが正文である[注釈 75]。世界中の多くの言語が、他の言語からの派生を繰り返して生み出されてきたが、日本語に関しては派生元の言語が明らかになっていない孤立した言語とされるか、琉球語を別言語とみなし日本語とともに日琉語族を成すとされる。

近代以前の日本語は、文語口語との乖離が大きかった。口語では京都方言(江戸時代中期以前)および江戸方言(江戸時代後期以降)が中央語と意識され広く通用したが、地域や階層による方言差が大きかった。明治維新による近代的な国民国家の創設に伴って言文一致運動が起こり、口語に近い文章語の確立が朝野の双方から推し進められた。東京方言を基盤に整えられた新しい文語や口語(標準語共通語)は、教育・報道・行政・軍隊などを通じて国民に広く浸透し、国民的一体感の形成に寄与した。共通語の浸透に伴い各地の方言は衰退・変容を余儀なくされた。近年、地域文化・アイデンティティーとして見直す機運が高まり、教育現場においても共存が図られるようになった[813]

日本は漢字文化圏に属し、日本語の表記には漢字とそれから派生した仮名を主に使用する。第二次世界大戦後、GHQは漢字の廃止を企図し、GHQの要請で米国から教育使節団が派遣された。使節団は、難しい漢字のせいで日本人の識字率が低いことを示そうと全国調査を命じるも、調査の結果高い識字率が確認された[814]。一方、漢字乱用の弊を除く目的で公布された「当用漢字表」については、漢字制限の路線に沿ったものであり、明言されていないが漢字全廃に向かう過渡期での規格という性格をもつものであった、とする見解もある[815][816]。しかしその後、当用漢字よりも緩やかな「目安」として「常用漢字表」が制定され、漢字全廃の方針は撤回された。そうしたなかで、一部の漢字は正字体(旧字体)から新字体に簡略化された。固有名詞は別扱いであることから、人名・地名などでは旧字体や異体字の使用が続いており、異体字の扱いは現在もしばしば問題となる。仮名の正書法に関しても、終戦後、従来の歴史的仮名遣から現代仮名遣いに変更された。近年、コンピュータの普及や文字コードの拡張などに伴い、漢字の使用に関する制限は緩められる傾向にある。

日本語以外には、アイヌが用いるアイヌ語や、樺太から移住した少数住民が用いたニヴフ語ウィルタ語がある。現在ではニヴフ語・ウィルタ語の母語話者によるコミュニティは消滅し、アイヌ語も母語話者が10人以下に限られる危機に瀕する言語であるが、アイヌ語再興の取り組みも活発である。琉球列島の伝統的な言葉は本土方言と違いが大きく、本土方言とともに日本語の二大方言の一つである琉球方言か、日本語とは系統の同じ姉妹語(「琉球語」)か、その位置づけには議論がある。琉球方言(「琉球語」)内部でも地域差が大きく、複数の言語の集合として「琉球語派」や「琉球諸語」と位置づける場合がある[817][818]


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